希望と安らぎの「音」を地域から世界へ/Monk Beat山口泰さん
普段何気なく聞いている好きな音楽。聞くと楽しくなるリズム、切ない心情に寄り添うメロディ、目に見えない音楽に秘められた不思議な力ってありますよね?近年、音楽が与える心理的・生理的・社会的な効果を応用した音楽療法の研究が進み、心身の健康が回復、向上したという事例に注目が集まっています。音楽療法とは少し異なりますが、この「音」の力で世の中に貢献しようと南房総のとあるお寺にレコーディングスタジオを構えるのは山口泰さん。CHARA やCrystal Kay、Britney Spears や *NSYNCなど数多くの世界的ミュージシャンのレコーディングやミックスを手掛けている山口さんは、何を目的として故郷南房総に戻り音を伝えているのか、その軌跡と展望を追ってみたいと思います。
極楽なひととき
徳川幕府の菩提寺として歴史ある芝大門「増上寺」にて開催されている『極楽なひととき』は、「音とお茶、そしてお寺」をテーマとして2013年から始まった音楽イベント。ただし音楽ライブといえば、歌や演奏を鑑賞するのが一般的ですが、この会場にあるのは参加者に振る舞われるお茶とお菓子、山口さんが仕事で用いる音楽機材、そしてお寺の空間です。
“「音」そのものを楽しむ安らぎの場を現出したいという思いがありました。「音」は目には見えませんが色や形があって、相互に影響しあっています。このイベントでは、心温まるお坊さんの話、美味しいお茶やお菓子を嗜み、穏やかな雰囲気に影響を受けた「音」が織りなされて「音楽」に変わっていく様をライブで実演しています。”
音を観ること
レコーディング・ミックスエンジニアと呼ばれる山口さんの仕事は、一般の人にはあまり聞き慣れない音楽の職種。音楽家が歌う声や演奏する音を何チャンネルも録音して、加工して混ぜ合わせ、1つの音源にまとめます。この音楽制作の工程に長年従事してきた山口さんは、音に様々な色や形があり、音楽から音に立ち戻ってこれを「観る」ことの不思議な力を感じてきました。
“「音楽」は個々の「音」からできていて、これは周波数なので簡単にいうと波動なんです。すべての人やモノ、自然は波動を出してますから、その場の参加者の波動も広くいえば「音」ですよね。それぞれ参加者の安らいだ波動に合わせて音をミックスすることで、参加者と一緒に安らぎの「音」を観る、そんなイベントをやっています。”
一見すると「ご住職様ですか?」と声をかけそうになる山口さんは、館山市出身で8年前に南房総へ帰郷し、現在南房総市旧三芳村の江戸時代に建造されたお寺にて作品を発信し続ける音楽家。お寺は、文化財としての価値もあって長期間に渡り安らぎの音(御経・御詠歌)と共鳴してきたことから、音響空間として特別な環境とのこと。山口さんはなぜ、安らぎの音を届ける活動を始めたのでしょうか。
米国での独立と9.11
“レコード会社で修行を積ませて頂いた後、1996年有り難いご縁でNYにてスタジオを開くことになりました。日本からも沢山のアーティストが録音しに来てくださってお陰さまで順調に進んでいたと思います。しかし5年後、突然9.11の悲劇が訪れたのです。ちょうど世界貿易センタービルの真下に新しいスタジオを契約しようとしていた矢先のことでした。”
世界を震撼させた2001年9月11日同時多発テロ。当時山口さんは、NYでレコーディングスタジオを運営しており、この事件を目の当たりにすることになります。この時に見た光景や体験が、その後の山口さんの人生を大きく変えることになりました。
“あの時のNYは恐怖の渦にありました。するとどうでしょうか、人々はお互いを励まし寄り添い合って歩くのです。極限状況で人間はどういう行動に出るのか、私も含めてそれは、命を大切にしようとする人と人との愛でした。その時からですね、音楽に対して大きく考え方が変わったのは。”
新しいスタジオの契約も破棄、当然音楽の仕事はキャンセルとなり、また事件の衝撃から精神的にも大きなダメージ負った山口さんは、悩んだ末日本に帰国することに決めました。それでも焼きついた光景と恐怖感に苛まれ、当分の間何も手がつかなったと言います。
京都での出会いと帰郷
“米国のエンジニアと語りあう時、よく「日本の音ってなんだ?」と聞かれることが多く、私は「寺の鐘の音だ」と答えていました。仏具の「お鈴」もそうですが、あのどこまでも響き渡るような澄んだ音色は、日本人のアイデンティティだと思っていました。そんなお寺に、全く別の角度から訪れるとは思いもよりませんでしたね。”
日本に帰国した山口さんは社寺仏閣を日常的に感じることができる京都に2年程住むことになり、お坊さんと語り合う機会を得ました。自分がNYで経験したこと、そして世界に対する悩みをお坊さんに打ち明ける度に、徐々に心に安らぎが戻っていきます。絶望のどん底から救い上げられた山口さんが感じた有り難みは如何ほどのことだったでしょうか。
“ある日、お寺で「仏門に帰依したいです」と伝えました。今思うとビックリな発言ですが(笑)、当時は真剣でした。すると、その住職は穏やかに頷いて「あなたがやるべきことは音楽の中にあるのではないでしょうか」とお答えくださったのです。この時に、これからの悩みが、スッキリ消え去ったことは忘れられませんね。”
2年の時間をかけて多くのお坊さんと語りあってきた日々の中、来る者拒まず、懐の深いお寺のあり方に、一時仏門に入ることも考えた山口さんでしたが、計らずも答えは音楽の中にあることに気づきました。「音楽で人様に安らぎを届けたい」こう決心した山口さんはMonk(僧侶)Beatという音楽制作チームを立ち上げ、故郷に戻ることにしました。
自然豊かな南房総から安らぎの音を発信
幼少期を過ごしたものの、親の引っ越しと共に離れ40年の月日が経っていた南房総。東京での修業、そして米国での独立、京都での出会いを経て、改めて南房総へ山口さんが帰郷した大きな理由は自然豊かな環境にあったといいます。
“「音」を考えた時に、人間は自然の一部なので、一番の先生はやはり自然なんですね。海山の自然豊かな南房総は、東京から距離も近いですし、アーティストがパフォーマンスを発揮するには最適な環境だと思います。もちろんネットを通じて音だけが送られてきて音源を作ることもありますが、この自然に囲まれたお寺でミックスさせて頂くことによって、聴いた人が少しでも癒しの波動を感じられるような、そんな音作りを心掛けています。”
山口さんはよく「パフォーマンスをあげる」という話をします。例えば音楽の機械は日に日に進化して音楽家の仕事に取って代わるようになりました。しかしこれは「機械のパフォーマンスがあがっただけ」のことに過ぎないのです。人にしかできないこととは何か?この問いへの答えが、音楽を通した安らぎの実現、そして南房総にて「音」を制作する活動に集約されています。そんな山口さんの主宰するMonk Beatは、これからも南房総から世界へ希望と安らぎの「音」を発信していくことでしょう。
文:東 洋平