豊饒の海を次世代へ/成田均さん
黒潮の影響でサンゴ生息の北限域をなす南房総は、海中の世界を楽しむダイビングも盛んです。中でも映画『グランブルー』で知られるジャック・マイヨール氏が晩年を館山で過ごしたことは有名な話として語り継がれています。そこで今回は、館山市の坂田(ばんだ)にて30年以上ダイビングスクールを運営する成田均さんに、盟友ジャック・マイヨール氏のメッセージを受けて取り組んでいることや里海の保全についてお話を伺いました。
秋田県男鹿半島の思い出
1947年、秋田県の男鹿半島に生まれた成田さんは、幼少期に父と毎年行った半島突端でのキャンプをきっかけとして海と親しむようになりました。
“初めて海に潜ったのは7歳の時でした。厳格な父で、日常遊びに連れていってもらった覚えがほとんどないので尚更嬉しかったのでしょうか。海の中はイガイやサザエやタイなど沢山の生き物がいて、神秘的な景色に目を奪われ、毎年夏のキャンプを楽しみにするようになりました。その後12歳で父が他界すると、ようやく解放された!なんて吹聴したものですが(笑)、中高時代にも夏はかかさず海へ潜りに行きました。どこかで父の背中を追っていたのかもしれませんね。”
早くに父を亡くしたことから新聞配達や牛乳配達をして小さな下宿屋を切り盛りする母を支える傍ら、高校時代は哲学書を読み耽り、ウエイトトレーニング部を創設するなど心身共に活発に育った成田さんが、「ダイビング」に出会ったのは高校卒業後の受験勉強中のことでした。
大崎映晋氏へ手紙を送る
“受験勉強の気分転換に金沢の親戚を訪れると、近くで「スクーバダイビング」の講習会があると知りました。まだダイビングなんて用語も浸透していなかった頃ですから、呼吸装置をつけて海に潜るなんてどういうことだ?と早速従兄弟を誘って受けに行ったのです。すると「君には稀に見る才能がある」なんておだてられましてね(笑)。ついその気になり、手にしたのが大崎映晋さんの著書でした。こんなに素晴らしい世界があったのかと感銘を受けて、早速弟子入りさせてほしいと手紙を送りました。”
成田さんが手紙を送ったのは当時世界水中連盟の日本代表であり、水中カメラマンとして活躍していた大崎映晋氏。弟子はとっていなかった大崎氏ですが、成田さんの強い要望から、東京五反田にあったお店や世界中から訪れる来客の対応などの手伝いをすることになりました。
ジャック・マイヨール氏との出会い
大崎氏のもとで所謂「丁稚奉公」を始めた成田さんは、自身のダイビングの才能を開花させ、数々の大会で好成績を残します。こうして1969年に日本代表として訪れたのが、イタリア・ボルケーノ島で開催された世界水中狩猟選手権大会(ブルーオリンピック)。
“大崎さん含む日本代表の4人で夕食を食べ、そろそろ席を立とうとしていた時に突然声をかけて来たフランス人がジャック・マイヨールでした。ジャックはすでにその頃世界記録を競っていましたが、フリーダイビングが死の恐怖との戦いであること、そして日本には禅や武士道など世界で最も完成された死生観があることを刻々と語り、いつかこの精神文化を学び日本で世界新記録を樹立したいと真剣に協力を求めてきました。”
伊豆での世界新記録樹立に立ち会ってから
“当時日本ではフリーダイビングの認知度が薄かったため厳しい状況もありましたが、大崎さんを始め関係者が努力してTV局がスポンサーについたことで、翌年1970年に伊豆で記録会が実現することになりました。そして数か月禅寺での修業を終えたジャックは、見事9月に水深76mの世界新記録を更新するのです。日本でのトレーニングにも何度か立ち会い、誰よりも記録達成を願っていたので感無量でした。そこでこのお祝いに「日本の北の海を潜りまくる旅」に招待しまして(笑)、この旅行を発端として30年来の付き合いが始まりました。”
ジャックスプレイスでの9年間
その後も連絡を絶やさなかった2人の親交が一層深まったのは、1985年に館山市坂田にて成田さんがダイビングスクールを創設した後、ジャック氏が晩年の拠点を館山の「ジャックスプレイス」に置いてからのこと。
“ジャックがよく言っていました。「成田は2%の英語力と48%のボディランゲージと50%のテレパシーでオレと会話している」って(笑)。それぐらい僕は英語がダメだったんですが、ジャックとはありとあらゆることを語りました。特に、よく知られているように、彼は環境問題を憂い、その原因や人間という存在について常に考えていました。バクテリアを含めたすべての生物が海から生まれたにも関わらず、人間はその海をいじめている、少しずつ殺していると。”
海の声を聞くランプシェード
“ジャックのこうした思想は、イルカという象徴的な動物を通じてホモ・デルフィナス(イルカ人間)という言葉で表わされています。簡単に言えばイルカの心を理解することで、戦争や貧困、環境汚染を生みだす愚かさに気づかせ、人間性を取り戻すことができるということです。海の生き物は声を発することができませんから、こちらが気づいて解釈をしていかねばなりません。もちろんその解釈を誤ることもありますが、海が投げかけている声無き声に耳を澄ますことはとても大事なことです。”
“例えば、ここに海辺へ流されてきた瓶のかけらを集めて作ったランプシェードがあります。割れた瓶は大方どこかの誰かが海に捨てたゴミでしょう。しかし海は、長い間このゴミを包み込んで角を取り払い、ビーチグラスにして輝かせます。そしてまた、この貝殻のランプシェード。何の変哲もない貝殻と思いきや、こうして光に照らすとどれ一つとして同じものがありません。まるで母の愛に照らされているようですね。”
成田さんはチーム「ホモ・デルフィナス」としてジャック氏の遺志を引き継ぎ、海の保全を求める様々な企画を提案してきました。その1つがビーチグラスや貝殻を素材としたランプシェード。子ども達が作れるようにわかりやすく、簡単な工程がポイントです。現在はより象徴的な場づくりとして、直径3mの貝殻ランプシェードに挑戦しようと企画しています。
豊饒の海を次世代へ残したい
そんな成田さんが、これから本格的に取り組みたいと語る夢は、自分が小さい頃に見た豊かな里海を再現するということ。
“どこの地域も漁業の衰退が叫ばれていますが、これまで2万本ほど海へ潜ってきて、漁師さんとはまた違った視点でどうして魚介類が減ってしまったのか、その原因が段々と掴めてきたように思います。乱獲や海藻の減少など様々な研究がありますが、最も重要なことは生き物が産卵して自然に育む環境を取り戻すことです。そして同時に海の環境を継続させるための教育も必要でしょう。漁業者の生活の海でもあるので簡単にはできませんが、海洋保護区を設定できれば、これまでの研究成果を注ぎ込み、10年かかってでも昔あった日本の海を再現して、子ども達に引き継ぎたいと思います。”
海を守るためには単なる啓発運動では立ち行かないと「ホモ・デルフィナス」を掲げて独特の視点から海と人間の関係を伝えたジャック・マイヨール氏。2015年には師匠大崎映晋氏が亡くなり、遺稿『潜る人からの遺言』の校正段階でバトンを渡された成田さんは、今後より一層活動に力をいれていきたいと語ります。誰よりも深く海に潜り、長く海を見つめてきた経験を基に、ダイバー達も参加して、里海保全や持続的な水産資源の活用に向けたより良い対策が取られることを期待したいと思います。
文:東 洋平
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