女手一つで創り上げる、人と馬のパラダイス/菅野奈保美さん
千葉県館山市在住のライター。2011年都内の大学卒業後に未就職で移住する。イベントの企画や無農薬の米作りなど地域活動を実践しつつ、ライターとして独立。Think Global, Act Localがモットー。
日本の地方でも特に国土の7割を占める中山間部は、かつて農業や林業、酪農、畜産業が広がり、生態系や環境の保全、平野部の洪水防止など多面的機能を担ってきました。集落の高齢化や担い手不足によって維持管理が全国的な課題となる中、千葉県南房総市の平久里(へぐり)地区にて5000坪以上の荒れた山林を女性一人で切り拓くのは菅野奈保美さん。馬森(まもり)牧場にて馬10頭と猫4匹、犬1頭とともに体験型施設を営んでいます。開拓10年を経た今、牧場が生まれた経緯と菅野さんの今後の夢についてお話を伺いました。
直感が導いた土地で、馬と暮らす夢をかなえる
房総のマッターホルンと異名を誇る伊予ヶ岳(いよがたけ)を背に、日本の酪農発祥地である嶺岡(みねおか)山系に連なる馬森牧場。その昔多くの馬が放牧されていた地だけあって、当初から牧場の運営を目的としていたのかと思いきや、菅野さんからは意外な答えが返ってきました。
“前職は美容関係の会社を経営していたのですが、仕事が落ち着いてきた頃に次は何をしようかなと、ふと占いを見たんです。そこには東の方角にとても良い運気があると記されていました。普段占いを頼みにしているわけではありませんが、その時は妙に勘がはたらいて、アメリカに渡ろうかとも思いましたが(笑)、ひとまずアクアラインを渡って南房総を訪れました。そこで尋ねた不動産屋に最初に紹介を受けた土地が、この場所なんです。”
“ここは天気が良い日には富士山が見え、山の間に赤く染まる夕陽がとても美しいところです。ちょうどその日も七夕の季節で素晴らしい景色が広がり、250坪の土地と空き家を即決で購入しました。当初神奈川に家は残して、セカンドハウスとして時々利用しようと思っていたのですが、ネットも高速で繋がるし生活するにも便利なので、いっそのこと住んでしまおうと全て引き払って越してきました。そこで飼い始めたのが馬4頭だったのですね。”
乗馬や宿泊、撮影も楽しめる複合型体験施設「馬森(まもり)牧場」
2007年に移住した菅野さんは、隣接する荒れた山林に敷地を拡げ、女手一つの開拓日記がスタートします。現在馬森牧場では、敷地内で乗馬体験ができる他、ゲストハウスへの宿泊やロケ撮影の受け入れなど、各種プランのある複合型体験施設。バラエティに富んだ内容は、荒れた山林を開拓する日々の中から少しずつ整えられてきたとのこと。
“何事もトライ&エラーといいますか、失敗を数のうちに入れずにどんどん動いてきました。自分が意図していたことと違うところに花が咲き、お客さんの喜ぶ声が聞こえ、やり甲斐を感じてきた積み重ねだと思います。牧場をやろうなんて思いもよらなかったところから、馬に会いに人が訪れ、中には泊まりたいという方もいらっしゃいます。それに伴い動物取扱業や旅館業といった認可を取得して、馬が気持ちよく過ごせる場所を整備するために日々山と向き合ってきました。”
“最近では乗馬以外にも、テレビ放送や音楽のプロモーションビデオ撮影で利用いただくことやコスプレ撮影に来られる方が増えましたね。馬森牧場の特長はなんといってもこの景色!馬との撮影だけでなく、山や川といったロケーションを活かした人物撮影も半分ぐらいあります。採算の取れない山林の開墾にここまで資金と労力を突っ込んできた私も変人かもしれませんが(笑)、風景をお金で買うことはできません。訪れる方が喜んでくれる笑顔と応援に心も思考も浄化されてきたといいますか。中山間部を「活かす」ことへの意識も高まっていきました。”
開拓の精神は、新しい可能性に目を向けること
馬森牧場の中を歩くと、かつてこの土地の一部が棚田であったことや、その後木々や竹林が生い茂っていたことがわかります。「これぞ新しい棚田の利活用方法」と笑いながら案内する菅野さんですが、開墾の道のりを肌身で感じることも馬森牧場が提供する一つの体験だといえます。
“もちろん一度荒れてしまった森に、光と風を取り戻すのは容易なことではありません。チェーンソーで鬱蒼とした木や竹を切り倒し、ワイヤーで縛って引きずり出し、パワーシャベルで整地するという途方もない工程です。棚田の粘土質は雨が降るとぬかるんで、足を踏み入れることもできません。馬を育て牧場の運営と並行していたこともあって、思うように作業が進まない日々もありました。しかし、これまで大変だなぁと思ったことはありません。”
“そもそも大きな時代の変化があって人が山を利用しなくなったのですから、そう簡単にうまくいかないのは当然です。私が一度に考えることのメモリや容量は限られていますから、辛いことや失敗経験に悩む時間はなく、常に新しいこと、楽しいことに目を向けてきました。また、素人から始めたこともありますが、自分のスキルや作業効率が日に日に上がっていくことは表現しがたい感慨ですね(笑)。”
暮らしの中にホースセラピー「馬特区構想」
このように開拓10年を清々しく振り返る菅野さんのもとへは、全国から牧場の作り方を学ぶ人々も訪れています。その一方で菅野さんにはこの地域で実現したい夢もあるとのこと。最後に今後の展望についてお話をお聞きしました。
“何もないところから牧場を作るには、それなりの原資が必要です。しかし今になってみれば、より低コストにスムーズに進める方法もあったため、有料ですが自分の経験は惜しみなくお伝えしています。こうして全国で馬を活用する方法が広がってほしいと願っています。競馬に出られなくなった馬、乗馬クラブでも働けなくなった馬は、行く先が限られ、産業革命以降、馬は急速に減っているのが実情です。”
“しかし古来、人と馬とは世界中で密接な関係があり、単なる交通手段を越えて馬が人に与える癒しの力には驚くべきものがあります。例えば熱帯魚のように、触れずに見ているだけでも心穏やかになります。「食用」という最後の手段以外に「自宅で馬を飼う」といった幸せな選択肢がないものかと、馬森牧場の運営をしながら考えてきました。”
“南房総では、人と馬が一緒に暮らすことも夢ではありません。多くの家が牛を飼っていたこともあって、空き家についている牛舎は馬小屋になり、馬飼い同士で預けあえば留守にすることも可能です。私の感覚ですと、ポニーを放牧で飼うのは犬を飼うよりも楽です。こうして「馬特区構想」という新しい夢が生まれました。馬を飼いたい人の夢の実現をお手伝いし、協力しあえば、決して不可能なことではないと思うんです。馬とともにある暮らしは、静かで満ち足りていて、幸せですよ。”
中山間部を維持管理するために、付加価値の高い生産物の作付けや資源の利活用など様々な方法が検討される中、菅野さんが提案するのは人が馬とともに暮らすこと。大胆な発想のようですが、荒れた山林に誰も想像のつかなかった馬の体験牧場が生まれたことを考えれば、決して夢ではありません。何より、菅野さんが女性一人で繰り広げる開拓の過程は、ジャンルを問わずあらゆる課題に立ち向かう人々に勇気と希望をもたらし続けることでしょう。
文:東 洋平
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南房総の体験牧場-馬森(まもり)牧場