サステナブルな森林(もり)づくりを未来へと継ぐ、つなぐ。北の小さなまち・北海道下川町の挑戦
持続可能。サステナビリティ。
あちこちでよく聞く、これからの言葉。持続可能な資源は環境に負荷をかけず、人の暮らしにも嬉しいことがいっぱい──頭では、その資源の循環が理解はできても、なかなかその一員に加わったり、実践したりするのはむずかしく、一歩踏み出しづらいものです。
そんな“サステナブル”な暮らしを、町の森林資源を活かして60年以上実践している地域があります。
北海道の旭川空港から車で1時間半。トドマツの生い茂る山々を抜けてたどり着くその町は、下川町。60年以上前から循環型森林経営を実践して来た、森林の町です。
下川町の、どういった取り組みが“サステナブル”なのか。その実態を、ご紹介します。
木を植え、育てて伐採し、また植える──循環型森林経営が成り立つまで
下川町は、北海道でも道北と呼ばれるエリアに位置する町です。人口は、約3,400人。町面積の9割が森林に覆われた、まさに森の町です。
夏は30度を超え、冬はマイナス30度まで下がり、一年の寒暖差は60度にもなります。基幹産業として林業・林産業はもちろん有名ですが、農業も盛んです。道内の貴重な小麦「ハルユタカ」や、糖度の高いフルーツトマト、高級食材のホワイトアスパラなどが生産されています。
林業・林産業を支えるのは「循環型森林経営」。木を植え、育てて伐採し、また植えるというサイクルが60年かけて一周しています。
なぜこの仕組みが何十年も前に確立されたのでしょうか。
時は遡り、1953年。
当時、基幹産業を支えていた鉱山の休山が相次ぎ、町は岐路に立たされていました。
そこで起死回生を賭けて、もう一つの主力事業だった林業・林産業を活性化すべく、国有林を8,800万円で払い下げます。当時の町財政は1億円規模。町のお金のほとんどをはたいて、一か八かで森林を国から購入したのです。
ところが、その翌年の1954年。北海道には滅多に直撃しない大型の台風が、町を襲いました。洞爺丸台風という名前で記憶に残っている人も多いこの台風は、道内でも記録的な被害を残しました。そして下川町の森林も例外ではなく、せっかく国から払い下げた森林がなぎ倒され、そのほとんどが売り物にならない状態になってしまったのです。また大規模な山火事も発生し大事な資源が自然によって奪われ、窮地に追い込まれました。
けれど、倒された木材からなんとか出荷できるよう加工を施し、「資源が枯渇しないようにするにはどうしたらいいだろうか」と知恵を絞った下川の人々は「循環型森林経営」というアイディアにたどり着きます。
決められた区画にトドマツやカラマツといった針葉樹を植え、60年かけて育て、伐採し、また植える──林業は農業と違って時間がかかる産業です。山や森を健やかに保つには、植樹しても翌年に大木になるわけではありませんから、数十年の月日が必要です。林業に従事している人々が生きている間に自身の仕事の成果を見ることができるかというと、そうでない可能性もあります。
その時間をぐっと耐え抜く決断をした下川町は、財政的な背水の陣だったにも関わらず循環する森林を基盤に、ゆっくりと時間をかけて林業を興していきました。
枝や葉まで余すことなく使い切る
森林が循環しているだけではなく、下川町では製材するときに不要になる枝や葉まで使い切り廃棄物ゼロを目指す「ゼロエミッション」を実践しています。建築物や土木に使われる木材はもちろん、製材される過程で出たオガコは家畜の敷料になったり、大きさや太さが足りない木材はチップになり「木質バイオマスボイラー」の燃料になったりします。
この「木質バイオマスボイラー」も、下川町のエネルギーを支える要です。
木質チップをボイラーで燃やし、そこで温められた熱水が配管を通して公共施設や住宅に送られます。それが暖房器具の役割を果たし、電気を使わずとも部屋があたたかく保たれるという仕組みになっています。
現在、ボイラーは町内に11基あり、町内の「五味温泉」や学校、病院などに配給されており、全公共施設の熱需要の約60パーセントを自給しています。ここで浮いた光熱費は、ボイラー自体の管理・維持費のため積み立てられると同時に中学生まで、子どもたちの医療費が無料になったり不妊治療の支援をしたりと子育て支援にも使われています。
また、下川町の中心部である市街地から少し離れたところに一の橋という集落があります。最盛期には商店が立ち並び映画館もあったという地域ですが、鉱山の休山やJRの廃線などにより人口が流出。1960年に2,058人だった人口は、2016年には134人に激減しました。
このままでは一の橋が消えてしまう、と危惧した町は「木質バイオマスボイラー」を使った熱配給を住宅向けに行い、地域コミュニティを復活させようと「一の橋バイオビレッジ構想」を立ち上げます。
一般住宅を廊下で繋げて集住化し、熱配給を各家庭に実施します。さらに「駅カフェイチノハシ」というコミュニティカフェを併設させることで、バイオビレッジで暮らす人々が集まれる場所を作り出しました。
さらに、ボイラーの熱を使ってハウスで菌床シイタケの栽培を開始。雇用を産むとともに新しい下川町の産業となり、今では北海道の旭川以北で多くの卸先とファンを持つ、シイタケブランドに育ちつつあります。
ただ循環する森林を守るだけではなく、その循環の中で生まれたエネルギーや財産をないがしろにせず、拾い集めて使う──簡単なようでいて、実践するにはハードとソフトのどちらも支えられる人がいないと成り立ちません。
下川町は、長年培ってきた森林づくりを中心とする取り組みが国から認められ「環境未来都市」に選定されました。現在もエネルギー自給100パーセントを目指し、先人たちが積み上げてきた“循環”を守りつつ、絶えず挑戦し続けています。
「ここなら何かできるかもしれない」という余白がある
こうした環境に配慮した取り組みに共感した人々が、少しずつではありますが下川町に集まり始めているようです。
特に20代後半から30代の若い層では、おぼろげでも「これがやりたい」という目的や夢を持って、下川町を選んで移住してくる人が増えています。
やりたいことと一言に言っても多種多様。自給自足の暮らしを目指して、町内の個人の畑を借りて実験的に野菜を売っている人や、薪屋として独立した人、手作りの石鹸を作っている人など様々です。
そうした「やりたい」という意思のある人や新しいアイディアに対して寛容な雰囲気があるのが、下川町の大きな特徴です。
1901年に岐阜から入植してきた人々によって開拓された下川は、他所から訪れる人々を受け入れて共存することで、発展してきました。筆者も東京から下川町に移住してきて半年ですが、鉱山がまだ基幹産業だった頃からたくさんの労働者が下川町に集まり、今でも“移住者”は異質な存在というよりは町民の一員という感覚を持つ人が多い印象です。
だからこそ、今を生きる人々が町の歴史を紡いでいるという感覚が強く、その新しさゆえのしがらみの無さが若い人が入り込んだり馴染んだりする余白を生み出し、「何かできるかもしれない」と思わせてくれるのかもしれません。
北の森林の、小さな町・下川町。未来を見据え、持続する町を作るべく今、生きる人たちが時代を紡ぐ──そんな地域のあり方のモデルが、この町にはあるのではないでしょうか。
文:立花実咲