南房総の空気、水、食、そして小さな生き物たち。細胞レベルで感受し描く日本画の世界/坂本一樹さん
千葉県館山市在住のライター。2011年都内の大学卒業後に未就職で移住する。イベントの企画や無農薬の米作りなど地域活動を実践しつつ、ライターとして独立。Think Global, Act Localがモットー。
古くから芸術家は自然からインスピレーションを受け、自己の内面や自然そのものを表現すると言われますが、ここ千葉県南房総にも海山の豊かな自然を窓口として多くの芸術家やアーティストが暮らしています。南房総市丸山地区にて居を構えるのは日本画家の坂本一樹さん。坂本さんが南房総に移住して10年来描き続けている「宙-SORA-」のシリーズ。日本画の伝統的な技法と坂本さん独自の探求が融合した個性的な世界観はどのようにして誕生したのでしょうか。坂本さんが自らのスタイルを確立するまでのプロセスと南房総とのつながりについてお話を伺いました。
アフリカの衝撃と絵画を通して伝えたいこと
坂本さんは岐阜県郡上市生まれ。多摩美術大学絵画科日本画専攻への入学とともに上京し、卒業後は同大学で8年間助手を務めていました。助手の期間を中心として坂本さんが何度も訪れていたのが海外への取材旅行。ケニア、アラスカ、インド、タンザニアなど数々の国で大自然に生きる動物を観察して回ることに。
“美大の課題で動物を描きますが、幼少期以来久しぶりに動物園へ行ってみるとこれがとても面白かったんです。特にキリンの存在感に目を奪われました。大きく模様も独特で、うわぁこんなの生きてたのかと(笑)。また学生時代アフリカ音楽に傾倒していて、親指ピアノや弦楽器のコラなど、様々な楽器の音楽を集めていました。キリンやゾウ、シマウマなど、見れば見るほど面白い動物たちへの思いと音楽から感じるものが不思議と似ていて、それならいっそのこと現地へ行ってみようと向かったのがケニアだったんです。”
初期の坂本さんの作品は、現在取り組んでいる「宙-SORA-」シリーズとは異なり動物や植物がテーマとなっています。一見すると作品のコンセプトに大きな変化があったように感じますが、坂本さんが絵画を通して伝えたい根底の思いは、この時期に培われてから今に至るまで一貫しています。
“ケニアに到着してナイロビの街へ出ると、まず驚いたのは黒い肌の現地の人々でした。当たり前ですがどこを見渡してもアフリカ人ばかりで圧倒され、同時に「地球ってすごいな」と。街を歩くとCDではとても伝えられない生々しい音楽が流れ、道端の目の見えない人々による合唱のハーモニーがなんとも美しくて何時間も聞き惚れたり、民芸品屋さんで木彫りの仮面や彫刻に衝撃を受けたり…。動物を見るつもりで行ったのですが、街中の人や文化、音楽に完全にやられてしまいました。”
“このアフリカでの体験を終えてから本格的に動物の絵を描くようになります。なぜ動物かといえば、一つは日本画の技術を修練するのに適したモチーフだったということもあります。しかし、もっといえば、動物園やナイロビの街、アフリカの人々から感じたような、地球の大きさや宇宙の不思議さや面白さ、存在の神秘を描きたい、という自分自身のコンセプトが固まった時でもありました。動物はそのエッセンスを伝えるのにぴったりだったんですね。”
10年動物を描き続けて訪れた作風の転機
アフリカの動物をモチーフとした日本画を精力的に制作してきた坂本さんですが、ケニアへの取材旅行から10年が経った頃、自身の作品やモチーフに対して悩みを抱えることになります。この転機を象徴するような作品がモノクロで和紙に描かれた『Z』(2003年制作)です。
“全国には数千人という画家がいて、自分のように動物を描いている人もたくさんいます。ある時、知らない展覧会で「坂本さん作品出していましたね」と挨拶されることがあり、非常に残念に思った記憶もあります。また今の時代サバンナの映像はテレビで誰でも見ることができるのに自分があえて絵にする必要はどこにあるのだろうかと、日に日に単に動物を描き続けることへのモチベーションが失われていきました。”
“そんな時に、描いたのが『Z』でした。日本画の材料は使わずに墨や木炭を使って色も制限し、構成も限られた画面に象の大きさが最大限引き出されるよう絞って、なるべくインパクトのある作品を描こうとしてできた作品です。どこかで日本画という難解な画法に縛られているのではないかという窮屈さもあり、そこからの解放を求めていたのかもしれません。その内面の葛藤がよく現れている絵だと思っています。”
“画家の活動には色々なやり方があると思いますが、主な活動方法として公募展に出品するということがあります。公募展には団体展とコンペ形式の大賞展があり、僕も動物を描いていた頃は出品していたわけですが、入選したりしなかったり、順位をつけられたりすることに違和感と疲労感を感じるようになったということも自分の活動の方向性を見失う要因だったと思います。本来、絵というものは比べたり競争したり優劣をつけるものではないはずでは、という思いが頭のどこかにありました。”
縦横に線を引き、できた形に色を塗る
画家としてのスランプとも言える時期に突入した坂本さんは『Z』のようにそれまでとは異なった手法に挑戦もしますが、一方でその後の作風の変化に強い影響を与えたのは一冊の本ととある絵画展でした。
“誰しも幼少期のお絵描きって楽しいものじゃないですか。ぐるぐる描き殴ってみたり、車を描いたり、お母さんを描いたり。その時の感覚に戻って絵と向き合いたいと思っていた時『絵はだれでも描ける』(NHK出版/谷川晃一著)という本に出会いました。この本には、全く絵が描けない人でも、とりあえず縦横に線を引き、そこにできた形の中に色々なものを見つけてみようと書いてあります。ちょっと線を足したりして車や船や鳥などを見つけてみようと…。それは、物体を写実的に表現するわけではありませんが、描く喜びを再発見しようという提案だと思ったんです。なるほどと思いましたね。そこで僕は、船とか鳥とか具体的なものを描くのではなく、縦横に引いた線からできた四角い形そのものにクレパスで色を塗り込んでみたんです。”
“また、ちょうどその頃に自閉症の方々による絵画展が東京で催されていて、これを見て大変な衝撃を受けました。純粋さとか、力強さとか、素朴さとか、アフリカの美術と匹敵するような芸術が描き出されています。誰かの絵と比べたり、優劣をつけたりするものではなく、描いた人そのものが表出していて無垢な美しさがありました。その時、これだと妙に納得したわけです。この絵がクレヨンやクレパスで描かれていたことから、自分もやってみようと思い、まずはスケッチブックに縦横無尽に線を引き、できた形にクレパスを塗り込む、という作業に集中してみました。”
「宙-SORA-」のはじまり
この時できた一枚の絵とも模様ともつかないものが、のちに「宙-SORA-」として坂本さんの代表的な作品へとつながる原点となります。白い紙をフリーハンドで格子状に線で区切り、隣り合わせに同じ色が並ばないように自由に塗るというシンプルな画面です。
“まっさらな紙に、さて何を描こうかというと、どこか構えてしまって、頭でっかちになってしまうんですよ。すると手が止まってしまうわけです。そこで手を止めずに、まずは線を引いてみる。できた形に色を塗り込んでみる。昔ワクワクして絵を描いていたあの頃のように、絵を描くことが楽しいという感覚がみるみる戻っていきました。そして面白いことに気づきました。縦横に線を引き、そこに見えるものを描くというスタイルは誰にでもできるやり方ですが、誰にでもできるからこそ唯一無二の、描く人そのものが出るんじゃないかと…。”
“「宙-SORA-」はこの延長線にある絵です。クレパスで色を塗るところから、これを日本画の画材に変えるとますます表現に深みが増していきました。感じるままに手を進めていくため、実験的な技法を試すことにもなり、結果的に自分なりの色や輪郭の描き方を発見することに導かれていったように思います。もちろんコンセプトは動物を描いていた頃と変わらず、存在の不思議さや神秘を表現したいということです。しかし、もはや何かを無理に作り上げることはなく、下絵で塗った模様から好きな形や面白いと思った形を、リズム感を大切にしながら発見していくことで、絵が完成します。”
ポーンと出てきた家が、南房総との出会い
こうして日本画における個性的なスタイルを創造していった坂本さんですが、南房総との出会いは、まさに新しい表現方法を生み出していた当時のこと。もともと自然豊かな地で制作活動を行いたいという夢があったそうですが、画家としての新しい門出を踏み出す勇気が同時に背中を押したのか、トントン拍子に移住も進んでいきました。
“引っ越す前は川崎に住んでいたのですが、川崎の頃は家の他に制作するスタジオや絵を保管する倉庫なども借りていて、無駄なコストもたくさんかかっていたように思います。そんな時に妻が働いていた職場から『自休自足』という雑誌を持ち帰ってきまして、物件情報のページを開いてびっくり。地方には川崎の中古マンションを買うよりも安い価格で一軒家が買えてしまうことがわかり、一気に夢が広がりました(笑)。”
“早速長野県や伊豆半島、群馬や新潟など、様々なところを見にも行きましたが、寒そうだったり、あまりに遠かったり、さてどうしようかと。そんな時に南房総の物件をネットで調べると、今住んでいるこの家が「ポーン」と出てきたんですね。翌日見に行きまして、「ここだ!」と即決して帰ってきました(笑)。住んでみて予想以上に家の改修が必要だったり、竹やぶを開墾したりと色々ありましたが、徐々に自分たちで家や周辺環境をつくっていくことも楽しみの一つです。”
存在の神秘を身近な自然から昇華する坂本一樹ワールド
南房総市丸山地区に住んで今年で13年目となる坂本さん夫妻。移住してすぐに「宙-SORA-」の制作がスタートしたこともあって、「宙-SORA-」のシリーズは南房総とともに発展してきたといっても過言ではありません。最後に、坂本さんの作品と南房総との関わりについてお聞きしました。
“東京からこんなに近い距離にあってタヌキやアナグマ、ウサギやイノシシ、フクロウなど、わざわざ2日かけてアフリカに行くまでもなく(笑)、ここにはたくさんの動物も暮らしています。また植物は面白いですね。例えば6月に咲くヤマユリですが、3月頃にはすでに芽がギューっと伸びてきています。この日々成長し移り変わってゆく姿を毎日見るだけでも自然の奥深さや不思議さを感じ、そんな環境の中で作品を制作できることはとてもありがたいことです。”
“「宙-SORA-」は、考える前に手を動かし描くことで「無意識」を大切にした表現です。何か対象を写実的に描いたり説明したりするのではなく、自分の内面から湧き上がってくるリズムとメロディを形にしています。そのため、決して大げさではなく、呼吸したり、食べたり、皮膚から取り込むもの全てが僕自身を通して作品として現れているのではないでしょうか。汲んできた水を飲み、地域で採れた季節の野菜を食し、豊かな緑から造られる空気を呼吸し暮らしているため、まさに「細胞レベル」でこの地域の自然を表現しているという確信があります。これからも、身近にある動植物や南房総での暮らしそのものから感じられる宇宙の神秘や不思議さ面白さを、絵を見た人に感じていただけるように制作活動と向き合っていきたいと思います。”
長年モチーフとしてきた動物や植物を描く作風から、絵に対する考え方の変化やより原初的な感覚を取り戻す試みを経て、南房総の地で産声をあげた「宙-SORA-」シリーズ。坂本さんが新しい作風を想起した時期と南房総への移住は不思議と重なっており、ポーンと出てきた物件を次の日に即決したことには、坂本さんが南房総の自然から無意識に何かを感じとったのかもしれません。南房総には荘厳な険しい自然はありませんが、暮らしの隅々に穏やかで飾り気のない自然が溢れています。そんな自然体な南房総の自然と、自然体な坂本さんが引き寄せあって「宙-SORA-」シリーズが生まれたとも言えるのではないでしょうか。これからも南房総の身近な自然から、地球や宇宙の中にある存在の神秘を表現する坂本さんの作品と出会えることを楽しみにしています。
文:東 洋平
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