谷地魚店 谷地茂一さん
今年70歳になる谷地魚店の店主、谷地茂一さんは度々、新聞や雑誌に登場し、テレビドキュメンタリー『走る魚屋、小高に帰ります。~避難指示解除のまちで~』(福島テレビ制作)は、視聴者に深い感銘を与えた。谷地さんは、この地に店を構えた祖父から三代目に当たる。
「63歳の時に震災に遭いました。避難指示解除後の2016年7月15日に営業を再開しました。ちょうど2年前です。解除の日が新居の火入れ式で、その3日後に開店しました。建て替える前の家には、部屋が12室ぐらいありました。5人兄弟だったもので、前の家を建てる時に父と母が兄弟がそれぞれの部屋に泊まれるように建てたんですけれど、私の妹が独立して家を建てたら、みんなそっちに泊まりに行ってしまった(笑)。
2011年6月10日に仮設住宅に入り、避難指示解除の日まで5年1ヵ月、四畳半二間の部屋に女房と二人で暮らしていました。避難中、半壊した自宅にはねずみやハクビシンが入ってきて、魚も冷蔵庫に入れたまま逃げたから、それはもうすごいことになっていました。建て替えに際しては二階建てではなく平屋の家を、知り合いの大工さんに新築注文しました。
新築にしたことで、都市計画法に抵触したんですね。家の前の通りからこちら側は住宅地なんです。向こうが商業地。前の家を向こう側に建てていれば、そのまま大きな店を確保できたんだけれど、この場所では三分の一以下のお店しか建てられないことになって、以前より狭い店になりました。俺たち夫婦にはちょうどいい案配です。
前は仕出しとかもやっていたんですよ。近所に葬儀屋さんがあり、6号線に大きな葬祭会館があって、震災前はお通夜のオードブルとかお葬式の精進揚げなんかを作っていました。家が広かったから、150人前ぐらいの料理を用意する場所があったんです。保健所にも許可をもらって営業していました。新しいお店の営業許可証をもらった際に、仕出しをやってもいいか訊ねたら、この厨房では無理と言われました。葬儀屋さんの建物にも津波が入ってきて、廃業しました。小高の人口は震災前は12,800人だったけれど、今は約3千人です。1年間に150ぐらいの葬儀があったのが、今は1ヵ月に1つ、2つです。葬儀会館の経営も成り立たない。仕出し先がなくなってしまったし、俺らも歳なので、仕出しはやめて魚屋に専念することにしました」
避難生活をする谷地さんは、2011年7月から魚の移動販売を始める。トラックに乗って常連客の避難先や仮設住宅を巡った。
「買ってもらえれば嬉しいからね。常連さんがどの仮設住宅に住んでいるか気にもなったし。たとえば、旦那さんが死んでしまったばあちゃんたちは話し相手がいないのね。仮設に入るまでの苦労話がたくさんあるのよ。震災直後、冷たいおにぎりを冷たい水で飲みこんだこととか。体育館に避難した時、プライバシーが確保できずに大変な思いをしたこととか……。
そういうことは小高以外の人に話しても理解してもらえないから。移動販売では『小高の谷地魚店』と書いて営業したんです。そうすると、小高の人たちが『谷地さーん』と言って来てくれるんです。手を上げて待っていてくれる。買った後に、上がってお茶を飲んでけって。お茶飲めというのは、私の話を聞いてくいろということだから。それで上がらせてもらって、いろいろ話を聞いて、泣いたり笑ったりして、逆に元気をもらったりもしました」
魚屋にはたくさんの人が買い物に来る。谷地さんはお客さんと立ち話や情報交換をする。谷地さんのお店は、お客さんの声が集まる場所でもある。小高の人たちはいま何を必要としていて、どういうことを不満に思っているのか。あるいはこれから小高はどういう形で発展させていくべきなのか。
「小高にいま必要なのは、八百屋さんと果物屋さん。あと肉屋さん。全国的に『屋』が付く個人店が、大きなショッピングセンターに食われてどんどん減っているでしょ。俺は魚屋としてここでやっているけれど、今はここにスーパーマーケットがないからいいけれども、人口が増えてスーパーができれば、俺たちは必要なくなってくると思う。
浪江町とか原町を含めたこの辺りは、魚屋ががんばっていた。つまり、魚好きな人が多いということ。一昨年の7月にオープンした時に、仮設にいたばあちゃんたちが大勢来てくれたのよ。去年の3月20日に小高区仲町の三上魚店がオープンするまで、魚屋はここらで一軒だったから。谷地魚屋が小高に帰ってきたからおらも行くべぇって、仮設から出てきたばあちゃんがけっこういるんです。三上魚店の三上隆君はいま57歳で、頭が良くて顔も良くて商売もうまい、もうばりばりの人。俺とは違って、根っからの商人の家系なんです。俺はライバルなんて思ってません。尊敬してっから。
困っていることは、まだまだたくさんあるよね。小高には3千人ぐらいの人が住んでいるという風に言われているけれども、人が歩いている所をほとんど見ないよね。俺は70歳だけれど、70で働いているのはまだ若い方だと思う。65歳以上を高齢者と言うようだけれど、俺は自分を高齢者だなんて思っていない。自宅にこもっている人は、80代以上の人が多いと思う。この時期、暑くて昼間は外に出られない。冬になると、今度は寒くて出られない。どっちみち出られないんだよね。外に出てきているのは、ばあちゃんたちの散歩のグループ、若い人たちの犬に散歩グループだけ。じさまは家にいるんだな。浮舟文化会館とかで市民講座とかサークル活動があるけれど、出てくるのはみんなばあちゃんたちだけ」
柳さんのツイッターやブログには、谷地さんが何度も登場する。柳さん自身が、晩ご飯のお刺身を買いにお店を訪れたりもする。
「震災前は小高と関係がなかった柳美里さんが、ここに住んでくれるのはありがたいね。柳さんは家と土地を買ったわけだから、大したもんだと思う。俺は元々、本好きなので、近所に本屋ができて嬉しいね。20歳の頃、浪江のスーパーで働いていて、町の書店で立原正秋さんの本を買ってから読書が病みつきになったの。立原さんのお墓参りに瑞泉寺にも2度ほど行きました」
谷地さんは読書家である。書棚を見せていただいたが、立原正秋全集を始めとして、最近のものまでラインナップの充実ぶりに驚嘆した。これまで映画館で1,200本以上の映画を見てきたともおっしゃっていた。市井の文化人。この魚屋、ただ者ではない。
「ただ者ではなくただの凡人です(笑)。昨日は、フルハウスに注文した桂歌丸さんのDVDを取りに行きました。その時、柳さんの旦那さんに見せてもらった『キネマ旬報』のバックナンバー特集が気になって、注文してきました。最近だと、恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』も読みました。2段組で500ページでもあって、びっくりしたけれど。葉室麟や伊集院静も好きで、ずっと読んできました」
小高は文化人が輩出した土地でもある。文学の世界では、小高と関わりのある作家として埴谷雄高と島尾敏雄が有名であり、小高生涯学習センター『浮舟文化会館』内には、埴谷島尾記念文学資料館が併設されている。
「そう、俳句の豊田君仙子、半谷絹村、田中一荷水。作曲家の天野秀延とか、たくさんの偉人が輩出しています。その意味でも、柳さんがここに来てくれたのは、たいへん嬉しいことだと思う。柳さんの作品では『JR上野駅公園口』(河出書房新社)は、はまった作品です。『オンエア』(講談社)を読んでいた頃、たまたまそこの横断歩道を柳さん夫婦が渡ってたのよ。『先生、いま「オンエア」読んでっからな』と言ったら、二人とも真っ赤になってました」
今年70歳になる谷地さん。生涯現役を目指して仕事に注力されているが、お店の将来についてはどのようにお考えなのだろうか。
「1日のお客さんは、うんと寒い日とか大雨の日は7、8人。今日みたいに晴れた日は30人ぐらい。だからやめられなくなっちゃった。営業再開した時にお客さんの前で、その日の売り上げがゼロの日が3日続いたらやめる、と宣言したの。そうしたら、やめさせねぇ、と毎日刺身を買いに来る人がいるの。本当に嬉しいね。体が続く限り、この場所で魚を提供していきたいと思っています」
文・榎本正樹
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