ローカルニッポン

地域の歴史を掘り起こすことで国際交流を推進/NPO法人安房文化遺産フォーラム

日本と朝鮮半島は古くから交流があり、各地でその史実を認めることが出来ますが、この南房総でも現在につながる交流史が存在します。今回は、ローカルニッポンニュース「海を渡ったアワビ漁師達」にて米国モントレー市との国際交流でもご紹介したNPO法人安房文化遺産フォーラムが、交流史を掘り起こすことで進めている日韓交流活動をお伝えします。

ハングル「四面石塔」

千葉県館山市の大厳院には1624年に建てられた、東西南北の各面にハングル、篆字、和風漢字、梵字で「南無阿弥陀仏」と刻まれている四面石塔があります。この石塔に秘められた謎を紐解くことをきっかけとして、地域に眠る文化財や戦争遺跡の調査発掘のために高校教員を早期退職してNPO法人安房文化遺産フォーラムを設立したのが、愛沢伸雄さんです。


“建立年代の古さから県の文化財に指定されていたこの四面石塔ですが、長い間何の目的で立てられたのかよくわかっていませんでした。高校社会科の地域学習の課題として生徒とこの石塔を調査すると、大厳院を開山した雄誉霊巌上人、設立年代、さらに当時の日本と朝鮮の情勢が驚くように繋がっていったんです。”

雄誉霊巌上人は、浄土宗大本山知恩院中興の祖として知られ徳川家康政権下の宗教政策上大きな役割を果たした人物。雄誉上人が東京の霊巖島に霊巖寺を建て、南房総の橋渡しをしていたことや1624年が秀吉の朝鮮出兵の33回忌で、第三回朝鮮通信使が訪日し、連行された朝鮮人捕虜を返送した年であることを踏まえると、この四面石塔は供養碑である可能性が高いと愛沢さんは語ります。

“推測の域を出ないこともありますが、そもそも石塔に刻まれたハングルが創制初期の東国正韻という字体で、訪れた韓国の教授が「韓国にあったら国宝級の文化財」だと言うのです。それほどまでに貴重な石塔がこの館山にあること自体不思議なことですね。歴史の表舞台には出ない日本と朝鮮の民間交流がこの地にあったということでしょう。”

四面石塔(東面)と愛沢伸雄さん

朝鮮出兵での犠牲者への供養碑であることを直接示す資料はまだ見つかっていませんが、数々の歴史的事実や人物の接点ともなるこの石塔には、現代に活かすことの出来る多くの意味があるのではないか、授業実践を重ねるうちにそのことを深く考えるようになった愛沢さんはNPO活動に専念することを決心し、その後地域に眠る文化財や戦跡の発掘調査を続け、数多くの歴史文化を通じた人々の交流を実現させました。以下にNPO法人安房文化遺産フォーラムが主催してきた日韓交流をいくつかご紹介します。

NPO法人設立以降の日韓交流

・2005年たてやま日韓子ども交流事業
日韓友情年記念事業として、韓国浦項(ポハン)市・浦項製鉄西初等学校の子ども達を館山市へ3泊4日で招き、日本の家庭でホームスティを体験するとともに、館山市の子ども達と共にお互いの歴史文化や自然を学び合いました。

・2006年韓国済州島大学校 趙誠倫教授が視察来訪
第10回戦争遺跡保存全国シンポジウム群馬大会に参加するため日本を訪れていた済州島の大学教授趙誠倫さんが、館山市に残る戦跡はじめ、大厳院の四面石塔や、長興院の済州島出身者墓地を視察しました。

・2007年「快鷹丸」100年記念~浦項漁師との交流
1907年に館山湾より出航し、現在の韓国浦項市の沖合で遭難した水産講習所(現東京海洋大学)の練習船「快鷹丸」殉難者の供養碑を、終戦時に倒されて埋没してから20数年後に現地漁師が掘りおこして再建し守ってきました。この供養碑に参詣するため訪韓しました。

・2009年3月済州島「戦争遺跡調査団」来訪
済州島大学の戦争遺跡調査団が南房総を訪れ、代表的な戦争遺跡の他、大厳院の四面石塔や、長興院の済州島出身者墓地、海女の暮らしなどを視察しました。

「快鷹丸」供養碑の前で浦項漁師と共に

・2009年8月ソウル平和講演&まちづくり交流
韓国ソウル仁寺洞(インサドン)にある平和博物館にて、愛沢伸雄さん・池田恵美子さんが教員の平和学習をテーマに講演するとともに、仁川(インチョン)のまちづくり活動を視察、交流し、お互いの運動やまちづくりの可能性について話し合いました。

・2010年第9回日中韓青少年歴史体験キャンプin南房総
中韓団体と日本の各回実行委員会によって毎年開催されている日中韓青少年歴史体験キャンプを南房総で開催しました。150名もの参加者で5日間の交流が行われました。


・2013年9月韓国文化体育観光部・韓国文化観光研究院が視察来訪
韓国政府の文化体育観光部と外郭研究機関の研究員ら34名が来日、観光まちづくりの先進事例として市民による「館山まるごと博物館」活動を視察、交流しました。

・2014年8月韓国水原まちづくりルネサンスセンターが視察来訪
世界遺産の水原(スウォン)市でまちづくり活動を進める市民団体を支援するプラットホーム組織が主催し、まちづくりに関わる若手実践者の研修として来日、「館山まるごと博物館」活動を視察、交流しました。

水原の団体に画家青木繁が『海の幸』
を描いた小谷家住宅を案内

このように数々の交流を実現させてきたNPOの活動ですが、交流の内容をみると、朝鮮半島西南の島「済州島」に関連したものが少なくありません。それもそのはず、ここ南房総は1900年代初めから戦中そして戦後の動乱の中、新天地を求めた済州島の海女たちが活躍した場所なのです。

済州島との新たな出会い

一時は5000人もの済州島出身海女が日本各地へ出漁していましたが、戦後帰国する人や亡くなった方も多く、南房総でも済州島出身海女の来歴を顧みる人が少なくなりました。そんな中数々の日韓交流を企画し、両国両地域の研究基盤が整い始めて改めて調査を深めようとしていたNPOのもとに現れたのが、在日本関東済州道民協会元会長の李徳雄さんです。

鋸南町で海の家「渚の茶屋きまぐれモモ」を開いた李徳雄さん ガーデンには済州島の象徴的石像トルハルバンがある

“6年前に鋸南町保田に引っ越してきたある日、目の前の海岸から漁に出ようとする海女さんに声をかけると済州島出身だというんですよ。親戚に会った心地さえして嬉しかったですねぇ。聞いてみると現役ではもう数名の人しか漁を行っていないということで、何かできればと思って済州島含め日韓交流を行っているこのNPOを訪ねました。”

李さんは済州島出身の両親の長男として東京都荒川区三河島で生まれ育ち、東京で事業を起こした後、海辺での穏やかな生活を求めて鋸南町保田に移住しました。元々在日済州島出身のコミュニティーで日韓交流と済州島の振興に尽力してきた李さんですが、鋸南町にて図らずも済州島出身海女に出会ったことによって、海女を通じた日韓の友好の輪を広げられないかと模索していたところNPO法人安房文化遺産フォーラムの活動を知りました。

“済州島出身の海女さんに話を聞くと、在日ということから制度上または人間関係で様々な問題もあったようです。私もかつてそうだったように、まだまだ在日韓国・朝鮮人と日本人には見えない壁が存在するように思います。これは直接触れ合う環境が少ないという理由が大きいと思うんですね。例えば南房総でも済州島でも開催されている海女の祭りに日韓それぞれの海女をお互いに招待するとか、海女文化を通じて人々の交流が増えていくといいなと思っています。”

鴨川市の長興院には済州島出身の海女や
関係者が埋葬された十数の墓がある

済州島海女の足跡

戦前、戦中、戦後を持ち前の海女技術によって力強く生き抜いた済州島出身の海女。日本における彼女達の生活は一言で語れるものではありませんが、ここに1つ交流の物語があります。
南房総市千倉町平磯にて大海女(地区最高の漁果を誇る海女)となった故坂本静江さんの息子坂本正明さんにお話しを伺いました。

南房総市千倉町の海で長年海士を続ける坂本正明さん

“うちのお袋が済州島の海女に漁を習ったってのは有名な話。10代の時に一緒に潜って世話になったってよく話してたあ~たよぉ。そのお陰で時化なんかの時は俺たちも潜り方教わって坂本家は大海女だらけだった~よぉ(笑)。あと、ここいらの海女がみんな着てたチョーセンって海女着も、お袋が済州島海女から習って伝えたって話でね。感謝してたんでねぇかなぁ。”

済州島海女直伝の技術を母静江さんから学んできた正明さんもこれまで千倉一の漁獲を続けてきた大海士。また今ではスポーツウェアーのような磯着や許可されている場所ではウェットスーツを着る人が多くなってきましたが、南房総の海女が漁で着る「チョーセン」という海女着も済州島海女から教わったことで広まりました。済州島海女が困難な環境にあって、技術や道具を日本人海女に伝承していたことも忘れてはならない文化交流史といえるでしょう。

足もとの地域から世界を見る~授業づくりから地域づくりへ

最後に、NPO法人安房文化遺産フォーラムの今後の展開について愛沢さんに伺いました。

“引き続き調査が必要なテーマも多いですが、教科書や国家の論理とは別に、地域には世界とつながる多くの文化財や伝承がまだまだ眠っています。こうした歴史文化を掘り起こすことで、「平和・交流・共生」の理念のもと、国際交流を通じたまちづくりを進めていきたいと思います。”

東京韓国学校の校長と教員3名による館山の視察(2015年8月) 来春には初等部が合宿を予定している

NPOの歴史・文化財の調査活動、そして歴史文化を軸としたまちづくりの理念は、様々な日韓民間交流を生んできました。李徳雄さんとの出会いもきっかけとして、海女文化を通じた済州島との新たな絆が生まれることを期待しています。

文:東 洋平