かつては琵琶湖の底だった小佐治地区
滋賀県の南東部、三重県との県境の中山間地に甲賀町はあります。甲賀忍者発祥の地と言われるその町の一集落である小佐治地区は、総世帯数164戸、農家戸数78戸の小さな集落です。300万年前は琵琶湖の底でした。古琵琶湖の重粘土質の土壌から生産されるもち米は、昭和の末年まで天皇陛下に献上されるほど品質が高く評価されていました。
しかしながら、田んぼが傾斜地にあり平面が少ないこと、また粘土質のため水はけが悪く、その上獣害も多い。農家にとっては非常に作業がしにくい土地柄でもあります。そのため、多くの農家は農業を楽しむどころか、早く終わってほしい、できればやりたくない、という思いを持っていました。
また、昭和62年の圃場整備と機械化により、かつて田んぼで暮らしていた様々な生き物の住処が奪われ、生き物を見ることがほとんど無くなってしまっていました。
そんな中、この小佐治地区では、そういった問題に立ち向かい、農業の未来そして里山環境の未来に取り組む様々なプロジェクトが生まれています。
秋の収穫の喜びをもう一度!甲賀もち工房の六次産業
「昔、秋という季節は、農家が収穫を楽しみ、喜び合い皆でお祝いする季節だった。でも最近は、とにかく収穫を早く終わらせてしまいたい。農業はあまり興味がないという農家が増えてきたんです。」
小佐治地区で「甲賀もち工房」を運営する河合定郎さんはこう言います。
普通のお米の収穫時期が8月後半から9月である一方で、もち米は収穫期が9月末から10月です。近隣の集落では収穫が終わっているのを横目に、小佐治地区の農家は9月に入っても、台風で稲が倒れないか、雨が続くと機械は入れるだろうか?と心配が尽きません。かつては天皇に献上されていた高品質のもち米の生産地であっても、農家は収穫期の遅いもち米の生産を負担に感じるようになってきました。
そんな状況で、河合さんは、「農家にもう一度収穫の喜びを感じてほしい。もち米を生産することへの意欲を取り戻してほしい」という思いから、平成18年に<甲賀もち工房>を法人化、農業の六次産業化のスタートを切りました。小佐治では、農業が困難な土地柄、もともと人とのつながりが深く、何事も集落の住民総出で助け合う協力扶助の精神「結」が根付いていました。お互いに助け合わなければ農業ができなかったのです。「甲賀忍者のDNAが根付いているのかもしれませんね。」と河合さんは微笑みます。「そのような「結」の精神から、何かやろう!と声をかけるとついてきてくれる人たちがいる。思いを共有出来るまとまりの良さから、甲賀もち工房への協力者も増え、農家はもち米栽培への意欲を取り戻しつつあります。」
小佐治のもち米で作った様々な加工品は約20種類。中でも「よもぎあん餅」は、様々なメディアで取り上げられ、2014年ニッポン全国ご当地おやつランキングで10位に入賞するほどの人気商品です。
田んぼに生き物が戻って来た!「水田プロジェクト」
滋賀県で平成15年度からスタートした環境こだわり農産物認証制度。農薬および化学肥料の使用量を慣行の5割以下に削減するとともに、濁水の流出防止など、環境負荷を削減する技術で生産された農産物を県が「環境こだわり農産物」として認証する制度です。小佐治地区はその取り組みにいち早く参加しました。「小佐治環境保全部会」を集落の28戸の農家と共に立ち上げ、今では60戸の農家が参加しています。そんなとき、小佐治環境保全部会の代表橋本勉さんは、ふと「環境こだわりって言ってるけど、何が環境にとって良いのだろうか・・・?」と疑問を抱くようになりました。
田んぼを見てみると、橋本さんが子供の頃に見ていた田んぼと今では大きく様変わり。たくさんの生き物が住んでいたのに、今の田んぼには全然生き物がいないということに気が付きました。そこで、小佐治環境保全部会では、環境こだわり農産物の栽培だけで満足することなく、目に見える形で里山環境を改善していくべきだという思いから、田んぼに住む生き物を増やす活動を始めました。
圃場整備された田んぼには生き物が越冬する場所がないという点に着眼し、収穫時に田んぼの水を抜いてもその後生き物が生きていけるよう、田んぼの周りに水路を作りそこに塩ビパイプを通し、また田んぼの隅に「深み(小さな水たまり)」を作ることで、生き物が越冬しやすい環境を整えました。そうした努力の甲斐もあり、小佐治地区の田んぼにはメダカやどじょう、タニシなどの生き物が徐々に増加し、年に数回、地元の小学校や子ども会と共に、魚と生き物の観察会を開催しています。
子供たちは、「魚取りが楽しい!」「田んぼにこんなに生き物がいるなんて知らんかった」と、大喜びです。地元の子供たちや都会から農家民宿に訪れる人達が、甲賀の里山で「田舎体験」を楽しんでくれたら・・・地域に活気が出てくるだろうと橋本さんは期待しています。
取り組みはまだまだこれから・・・次は地球規模のプロジェクト!?
小佐治地区では、また新しいプロジェクトが動き始めています。国立総合地球環境学研究所(以下、地球研)が「栄養循環プロジェクト」のモデル地域の1つとして小佐治地区を選びました。学問的な視点から見て、小佐治が古琵琶湖層であったことから他地域と比べて土壌に苦土が多いことが選定理由の一つですが、何より、地域が一体となって里山の環境保全に取り組む姿勢や水田プロジェクトの成果から、モデル地域に選ばれたのです。
地球研では、琵琶湖の主要水系である野洲川の中流に位置する小佐治での農業が琵琶湖に与える影響が調査されます。かつてダムなどが無かった時代には、水田で利用される水は貴重な資源として、何枚もの田畑で再利用され(田ごし)、そこに住む生き物が栄養を取り込んでいました。そのため最終的に川に排出される水には栄養分が少なかったのですが、最近は貯水システムが発達し、田んぼの水は使用したらすぐに排水されています。そういった水の利用方法が琵琶湖を含む環境にどのような影響があるのか?それを今後5年に渡って調査されます。
地球研、栄養循環プロジェクトのプロジェクトリーダーである奥田昇さんに、モデル地域として小佐治を選んだ理由を聞きました。
「環境保全のためのプロジェクトは、理系だけのプロジェクトであるべきではなく、文理融合、そして、地域の人の幸福感につながっていないといけない。小佐治地区の人たちには郷土愛があり、活性化したいという強い思いがある。すでに地域として環境保全に取り組む体制が出来ているので、このようなプロジェクトにはぴったりの場所でした。」
環境保全のための取り組みの成果は数字で表されるデータだけでは測れません。地域全体で取り組み、住民自身が農業が環境に与える影響を知り、自身の活動が環境の保全につながっていると感じることで得られる幸福感が重要なのです。そのためには、そこに住む人たちが里山環境を守りたいという思いを共有していなければなりません。小佐治地区ではその体制がすでに出来上がっているのです。
地域のつながりと主体性
小佐治地区ではなぜ次々と新しいアイデアが生まれ、それを実行することができるのでしょうか?
3年前から水田プロジェクトを通じて小佐治の里山環境を研究する龍谷大学社会学部の脇田健一教授は「何より小佐治には、“地域の主体性”がある。農村のライフスタイルを再考・再評価し、田んぼの観察会などを通して、世代間で里山暮らしの楽しさの「遺伝子」を継承していくためには小佐治のような主体性ある活動が必要である」と言います。
小佐治地区も他の中山間地が抱える様々な課題に直面しています。農業の未来や里山環境の保全、そういった課題に立ち向かうとき、重要となるのは個々の取り組みではなく「地域の主体性」なのではないでしょうか?もち米栽培への意欲を取り戻すための6次産業化や、水田の生き物観察会を通じて子供たちに里山の環境の素晴らしさを伝える活動は、小佐治地区に住む人たちが主体的に取り組んでいるからこそ、持続可能な活動として定着しています。地域にリーダーシップを発揮する人材がいる。そして、それに協力する「結」の精神が根付いている、地域が主体性をもって様々なプロジェクトを動かすことこそが、今後の里山の未来を創っていくと感じました。小佐治のように地域が一体となり自分の住む土地を守っていくという強い思いのある地域が、他地域のモデルとなり日本の農村が活性化していくことを期待したいです。
文:株式会社fm craic 三峰教代・佐々木由珠
写真:株式会社fm craic・小佐治環境保全部会