ローカルニッポン

青木繁が「海の幸」を描いた小谷家住宅が地元保存会と全国美術家の協働で保存から公開へ

9歳の若さで夭折した明治期を代表する画家青木繁。短い人生に残したいくつもの名作のうち、西洋画として日本初の国指定重要文化財となった「海の幸」は、千葉県館山市富崎地区の布良(めら)という漁村で描かれました。布良はかつてマグロ延縄漁発祥の地として栄えましたが、現在少子高齢化が急速に進み、富崎小学校も2012年に休校となっています。青木繁が「海の幸」を描いた小谷家住宅の修復と4月から始まる公開を通して、富崎地区は今後どうなっていくのか。地域の活性化を担う新たな拠点創出の経緯とその思いに迫ってみたいと思います。

制作旅行に訪れた布良

1882年福岡県久留米市に生まれ、上京後旧東京美術学校洋画科(現東京芸術大学)に入学した青木繁は、日本洋画家の第一人者黒田清輝らの主宰する展覧会「白馬会」にて第一回白馬賞を受賞したことで一躍画壇の注目を集め、「青木グループ」と呼ばれる若手画学生の集まりを結成します。この青木グループに所属していた同郷の詩人高島宇朗が詠んだ美しい布良について詩や、神話や古代ロマンにあふれる布良に興味のあった青木繁は、卒業後の7月、写生旅行に布良の地を訪れるのです。

青木繁
(1882年7月13日 – 1911年3月25日)

マグロ延縄漁で空前の繁栄

館山市布良はマグロ延縄漁という漁法の発祥地。この漁法にて高価なマグロが日本一水揚げされる明治期の布良には、一攫千金を狙う勇壮な漁師が全国から集ったことで人口が増え、小さな漁村に銀行や映画館までが建ち並びます。また布良の後家船と呼ばれるほど危険なマグロ漁の背景では、民謡「安房節」など数々の文化も生まれました。この光と影の共存した繁栄をなす布良で、漁家小谷喜録の民家に約1カ月半滞在して描いた「海の幸」は、技法のみならず海に生きる漁師と神話に着想を得た生命力溢れる傑作として、1967年国の重要文化財として指定されることになります。

青木繁《海の幸》1904年、公益財団法人石橋財団石橋美術館蔵

青木繁没後50年記念碑の保存活動をきっかけとして

それでは、「海の幸」が描かれた小谷家住宅の保存活動はどのようにして展開してきたのでしょうか。「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」会長の嶋田博信さんにお話を伺いました。

1962年に建てられた青木繁没後50年「海の幸」ゆかりの地記念碑(設計者:故生田勉東京大学名誉教授)

“布良に「阿由戸の浜」という、古代からの歴史があり、最近ですとドラマ「ビーチボーイズ」のロケ地ともなった浜辺がありますが、この場所に1962年当時の館山市長と美術界の先生方が協力して青木繁没後50年に記念碑が建立されました。しかし、1998年にその隣にあったユースホステルが営業停止して、この記念碑も一緒に撤去される話が持ち上がったものの地域の要望で撤去は免れました。その後、保存管理の問題について、当時の富崎地区連合区長会長の吉田昌男さんがNPO法人安房文化遺産フォーラム(以下、NPOフォーラムと略)の愛沢伸雄さんに相談したことから、地域の人びとに呼びかけ、2005年に「青木繁《海の幸》記念碑を保存する会」(仮称)としての活動が始まったと聞いています。”

“私も正直なところ地元に帰ってきたばかりで、その時は記念碑がどれほど重要なものなのかよくわからなかったのですよ。しかし、問題が浮上して会合を重ねる中で、青木繁について知り、「海の幸」が描かれた布良について誇りを感じるようになりました。そこで、記念碑の次は青木繁が滞在した家を保存しようということになり、富崎地区コミュニティ委員会と連携して、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」が正式に発足しました。事務局は、当初より関わっていたNPOフォーラムが担ってくれて、助かっています。”

2011年に開催された青木繁《海の幸》フォー
ラムに登壇する地元保存会会長嶋田博信さん

青木繁が「海の幸」を描く期間滞在した小谷家住宅は、漁業で栄えた布良の漁家が住まう分棟型民家を今に残す明治時代の貴重な建造物です。小谷家当主は地域活性化に賛同し、自宅の保存と活用を英断されました。そこでNPOフォーラムが文化財調査をすすめ、2008年に小谷家当主から館山市教育委員会に文化財の申請をしました。翌年には館山市有形文化財(建造物) に指定されたものの、一部緊急に修復しなければならないと指摘を受け、その維持修理費は所有者負担とされました。全体的に老朽化が進んだ建物は、調査により算出した修復の総事業費が4600万円。記念碑を保存する活動は、小谷家住宅復保存活用のための基金運動へと繋がっていきます。

全国の美術家によるNPO法人青木繁「海の幸」会発足

地元館山での小谷家住宅保存へ向けた取り組みが公式に始まる前から、小谷家を訪問していた美術家の方たちがいました。女子美術大学教授で画家の吉武研司さんや画家の吉岡友次郎さんです。「ヨシヨシコンビ」と自称するお二人は、小谷家住宅保存の大きな応援団となっていきました。

NPO法人青木繁「海の幸」会理事 吉武研司さん:
“女子美の学生と布良にスケッチ旅行に行った時に、この地が、かの青木繁が「海の幸」を描いた舞台であることに感動を新たにしました。青木繁が滞在した民家を何とか残せないかと思っていたところ、地元で保存活動が動き始めていると知り、そこで何か我々画家にも力になれることはないかと思い、早速同じ日本美術家連盟に所属する吉岡さんに相談したんですよ。私も吉岡さんも「海の幸」に大きな衝撃を受けて画家の道を歩み始めた者の一人ですから。”

NPO法人青木繁「海の幸」会の吉武研司さん
(写真右)と吉岡友次郎さん(写真中央)

NPO法人青木繁「海の幸」会事務局長 吉岡友次郎さん:
“吉武さんの話で2001年以来毎年小谷家住宅を訪れていましたが、地元保存会の総会に何度か出席し、2010年の「海の幸」会法人化以降、協働で小谷家住宅修復の基金を募ることになりました。NPO法人の設立に大村智先生が理事長を引き受けてくださってからは、活動が一挙に加速しましたね。2009年に亡くなられた平山郁夫先生や現在も活躍されている奥谷博先生など錚々たる方々が理事に加わって下さり、会員となった画家や美術家は総勢600名を超えました。青木繁が、いかに後世に影響力をもった偉大な画家であったことを証明するようでした。”

NPO法人青木繁「海の幸」会理事長大村智さ
んと小谷家当主の小谷福哲さん

2008年地元保存会「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」設立の2年後、青木繁を慕う全国の画家や美術家によるNPO法人青木繁「海の幸」会が発足しました。理事長は2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智さん。大村さんは女子美術大学の名誉理事長を務める美術愛好家でもあり、大村さんの理事長就任と呼びかけによって、基金活動は活発化。会派を超えたチャリティ展の「青木繁『海の幸』オマージュ展」も実現しました。

2012年館山市「渚の駅」で開催された青木繁『海の幸』オマージュ展 ギャラリートークの様子(出展元

小谷家住宅公開に向けて


2012年館山市のふるさと納税制度に「小谷家住宅の保存及び活用の支援に関する事業」が加えられたことも後押しして総事業費の募金に見通しがつき、2015年末に修復が完了した小谷家住宅。2016年4月29日の公開を目前として、どのような未来が描かれているのでしょうか。

地元保存会事務局長(NPO法人安房文化遺産フォーラム代表)愛沢伸雄さん:
“NPOフォーラムでは、2009年に国土交通省「新たな公」によるコミュニティ創生モデル事業の選定を受けて、富崎地区の活性化に取り組んできました。具体的には青木繁《海の幸》、安房節、アジのひらきの3つの「あ」によって歴史文化や食文化などの「地域資源」を活用してコミュニティビジネスを検討していこうというものです。さらに、2011年からは文化庁の「文化遺産を活かした地域活性化事業」「NPO等による文化財建造物の管理活用事業」などに5年連続で選定され、青木繁「海の幸」フォーラムや先進地視察、造園ワークショップなど多様な活動を展開してきました。”

NPO法人安房文化遺産フォーラム
愛沢伸雄さん

“富崎地区は、館山市の中でも特に自然や歴史文化遺産などの地域資源に恵まれた土地で、NPOフォーラムが実践している「館山まるごと博物館」構想の一角を占めている地域です。その核となる小谷家住宅が公開されることに伴い、ガイドツアーや統廃合となった富崎小学校の利活用も含めて、改めて地域に還元されるソーシャルビジネス、そしてコミュニティ振興を企画して、市民が主役のまちづくりをすすめていきたいと思っています。”

小谷家住宅に寄贈されたブロンズレリーフ 写真前列中央左:レリーフ塑像作者の船田正廣氏

遡れば10年を超える地域の保存会やNPOフォーラムの活動、そしてNPO青木繁「海の幸」会にまつわる数々のドラマが繰り広げられた小谷家住宅の修復事業ですが、今年に入って「海の幸」のブロンズレリーフが寄贈されるという新たな展開も迎えています。制作者は東京芸術大学卒業で館山市在住の彫刻家・船田正廣氏、資金提供者は埼玉県川口市に住む韓国・光州市立美術館名誉館長の河正雄(ハ・ジョンウン)氏。二人の社会貢献によって小谷家住宅と青木繁旧居(福岡県久留米市)と韓国の美術館の総計5箇所に設置されることになったのです。古代から明治にかけて奥深い漁村の歴史を今に伝える富崎地区において、青木繁ゆかりの小谷家住宅が地域に活力を取り戻すきっかけとなることを期待したいと思います。

文:東 洋平