私達の生きる源となる「食」。これを育む日本の農業では、高齢化や担い手不足が進み、耕作放棄地は富山県の面積に匹敵します。食品の流通網が発達して、日本だけでなく世界中の食材が手に入るようになった現在、農業が直面する問題はどのように食の安全や農村地帯の変化へ影響を及ぼすのでしょうか?今回は南房総市旧三芳村へ移住して新規就農し20年目となる八木直樹さんと、妻幸枝さんが取り組んでいる農業や資源循環の取り組みから「食」と「農」について考えてみたいと思います。
平成のコメ騒動
やぎ農園八木直樹さんは、東京生まれの東京育ち。就農する前は看板屋の職人として働いていました。どういったきっかけで農業の道を歩み始めたのでしょうか。
“看板屋の頃は、趣味の山登りでよく地方へ行き、農村地帯の景色に癒されていました。大きな転機となったのは、1993年。記録的な冷夏で米が不作となり、タイ米などが大量に流入したコメ騒動でした。日本の農業がおかしくなっているのではないか?そんな危機感から調べると、農業が成り立たなくなってきていることを知りました。看板屋の仕事が嫌だった訳ではないのですが、リゾート開発の現場での仕事もあり、わざわざ自然を壊してまでつくることへ違和感がありましたし、農業について調べるうちに「有機農業」という世界があることを知り、納得のいく生き方をしようと有機農家へ転身することを決意しました。”
平成のコメ騒動は、米の供給過剰を防ぐ減反政策から米の輸入緩和に結びつく歴史的事件となりましたが、この出来事から八木さんは農業や食の安全性について関心を高めていきました。
三芳村生産グループとの出会い
その後1997年に手に取ったのが、日本有機農業研究会が発刊した全国有機農業者マップ(1996年)。この中に掲載されていたのが千葉県安房郡旧三芳村で有機農業を行う「三芳村生産グループ」の農家でした。
“今でこそ国が新規就農者に補助金を出して支援をするなど施策を進めていますが、当時は就農なんていったら変人扱いでした(笑)。それぐらい無農薬であるなしに関わらず、自然相手の農業で食べていくのは厳しい現実もあります。しかし、三芳村生産グループでは金銭の話よりも、自然に対する目線、作物に対する愛、百姓としての心構えなどが中心的な話題でした。”
“振り返れば、こうした環境で有機農業を学ぶことができて本当に良かったと思います。もし最初から農業をビジネスと捉えていたら、どこかで挫折していたかもしれません。今でもふとした時に先輩の声が聞こえ、心の中に焼き付いている言葉があります。農業というのはこういうことなのか、目を見開かれる毎日でした。こうして自分なりの農業に辿り着き安定してくるまでには10年以上はかかりました。”
三芳村生産グループは、1973年に現西東京市を中心とする消費者団体「安全な食べ物をつくって食べる会」の要請に応えて、徹底した無農薬無化学肥料栽培に切り替えた有機農家の集まり。安全な農産物を生産者が消費者へ直接届ける「産消提携」は以後国内だけでなく、欧米諸国にも伝わりました。八木さんは研修も含めて約14年もの間、この三芳村生産グループに所属することになります。
食でアレルギー症状が改善
都会から地方生活に飛び込み、縁あって跡取りのない農家の養子に入った八木直樹さん。東京の有機農家へ見学に行った時に知り合ったのが、その農家で住み込み研修中だった妻の幸枝さんでした。
八木幸枝さん:
“横浜で保育士をやっていたのですが、ある年重度のアトピー性皮膚炎をもった子どもさんが0歳児で入園してきました。園では、給食の先生や保護者とともに食生活の改善を試みました。すると卒園するころにはアトピーが治り綺麗な肌になったのです。このことが衝撃で、園長の薦めで食の勉強をはじめ、有吉佐和子さんの『複合汚染』はじめ何冊も本を読み、安全な食は自分で作るしかないと思い立って保育士を辞め、農業研修に入りました。”
安全な食を生産現場から伝えたい
アトピー性皮膚炎が食べ物で改善する様を目の当たりにした幸枝さんは、信頼できる食を自ら作るため、農家を志しました。ただし、その農業とはあくまで自給を基礎にひろがりを求めていくもの。
“ここにある胡麻ですが、梅雨越しすると虫が湧くものです。そのため、船で長い期間かけて輸入する食品には殺菌や防かびのためのポストハーベスト農薬をかけることになります。だからといって輸入農産物はダメと偏見を持ちたくはないのですが、昔から「身土不二」という言葉にもあるように、出来る限り身近で採れた作物を食べるのが自然なことではないでしょうか。このように安全性を追求すると、自分達が食べたいと思う農産物を作り、おすそ分けするという理念が安全な食の根本にあるのかと思っています。”
夫婦それぞれの経験から有機農業と出会い、1町歩(3000坪)の田んぼと1町歩の畑で無農薬無化学肥料栽培にて農産物の生産に努めるやぎ農園。2011年の3月からは、より一層食や農への独自の思いを伝えたいとの意向から、三芳村生産グループを離れ、新たなつながりの出来た消費者に直接農産物を届けています。
数字には表れない農家の環境活動
それでは、平成のコメ騒動以降も輸入農産物が増え、農業者が減っていることから食糧自給率の低下も問題となっている日本の農業について、今八木さんはどのように考えているのでしょうか。
八木直樹さん:
“農産物が安くなれば、家計の負担が減り、消費者にとって良いことだとする考えもありますが、安価競争で輸入農産物が増えた後、世界人口の膨張で食糧が足りなくなった時に日本はどうなるでしょうか。例えば、これまで先祖の土地をなんとか絶やさないようにしようと農地を管理してきた農家の方々にとっては、稲作の収支がほとんどゼロに近くなった今、稲作はほぼボランティア活動です。しかし仮に米価がこれ以下となって田んぼをやればやるほど赤字になってしまったら、さすがにこうした農家も耕作を辞めざるをえないでしょう。”
“農家には、産業別総生産額などの数字には表れない、畦の草刈り、水路や竹藪の管理など金銭を対価としない協働作業がたくさんあります。これを公共事業で請け負ったらどのぐらいの税金が必要になるでしょうか。反対に放っておけば、藪だらけになり景観が失われるどころか、農村が担ってきた環境保全機能が崩れ、洪水が多くなり、急速に人が住める場所ではなくなっていくことでしょう。日本の農業が縮小するというのは、国産農産物が減るだけでなく地域環境を守る活動も同時に失うことになるのです。”
“しかし、農業は大変で農村には悲壮感が漂うかというと、そんなことばかりではありません。窮屈な現代社会に比べれば自分を偽ることなく解放でき、暮らしとともに命の源をつくる面白さがあります。そんな農村の良さを若い人たちに知ってほしいですね。”
安全性をもとに「食」の大切さを伝える八木さんは、世界的な人口増加によって食糧不足が起こると懸念される現代、より広い視点から、農法に関わらず、日本の「農」が衰退することについて危機感を抱いています。農産物価格の低下は、日本の農家と生産物の減少を促し、農家がそれぞれ管理してきた農地だけでなく、その周辺の環境にも影響を及ぼす可能性があるのです。
ごみはまわる・暮らしはまわる
幸枝さんは昨年、仲間たちと「安房ふんころがし」という団体を立ち上げ、南房総地域で生ごみの堆肥化プロジェクトを推進しています。
八木幸枝さん:
“もとはこの地域のごみ処理問題を勉強したことが発端となっているのですが、楽しく実践できることをやろうと生ごみの堆肥化を始めました。昨年南房総市の「市民提案型まちづくり事業」に採択頂き、今年は家庭で生ごみを除去して堆肥に変えることのできる「キエーロ」という器具の普及活動に取り組んでいます。ごみ全体の40%を占める生ごみですが、「キエーロ」を使うと悪臭もなく、暑い季節には5日位でごみが消えてしまうんですよ。”
“食や農、そしてごみも似たようなことで、効率化や利便性を局所的に追求した結果、課題が山積みとなり、もはや先送りできない状況になっていると思います。安房ふんころがしのスローガンは「ごみはまわる・暮らしはまわる」。暮らし全体を見渡して、一人一人の学びやちょっとした工夫が明るい未来をつくると思います。”
食の安全性だけでなく、農が日本の経済や社会そして環境に果たしてきた役割を考え、ローカルでできることから実践するやぎ農園ご夫妻。消費者にとって生産現場で起きている変化を知る機会は少ないですが、農業の課題が決して消費者の暮らしと切り離せることではないことがわかりました。今後より総合的な視点で農業の意義が再認識され、消費者と生産者の理解と協力のもとで農業の課題が解決していくことを願います。
文:東 洋平