ローカルニッポン

必然性から生まれた、唯一無二の美術館/秋田県羽後町鎌鼬美術館

ひとの熱意に寄り添い、少額でも個人でプロジェクトを支援できるクラウドファンディング。その力をかりて多くの心を動かし、創立された美術館があります。そこから発信される風土の記憶と後世に残したい文化遺産への眼差しをご紹介します。

七曲峠の見晴らし風景

昔ながらの稲架(はさ)干し風景が広がる秋田県羽後町田代(たしろ)。つづら折りの峠道、七曲峠を抜けた山間の集落は「鎌鼬(かまいたち)の里」とよばれ、この地を慕って日本そして世界各地から人々が訪れています。想いを寄せる来客たちから、生まれ育った集落の文化遺産に気づかされたというのはNPO法人「鎌鼬の会」の阿部久夫さん。2016年10月に開館した「鎌鼬美術館」は、この地に魅せられた大勢の支援者によって設立されました。この背景には、半世紀前のくらしの光景を蘇らせる写真の力がありました。

鎌鼬(かまいたち)の正体とは

鎌鼬とは、つむじ風に遭遇したとき、知らぬ間に皮膚が刃物で裂けたように切れる怪異で、雪深い東北の自然現象のなかで多く伝承されています。1965年の秋に、その鎌鼬が不意にあらわれ、村人たちを翻弄したのが事の始まり。時空を切り裂くように日常を反転させ、まるで村はハレの日の様相となりました。

鎌鼬 作品13   細江英公 写真集「鎌鼬」より

鎌鼬 作品14   細江英公 写真集「鎌鼬」より

写真集「鎌鼬(かまいたち)」(1969年刊)は舞踏家 土方巽(ひじかた たつみ)に写真家 細江英公(ほそえ えいこう)が迫った作品。海外からも「まさに日本の原風景」と賞賛され、大反響を呼びました。農繁期の村へ、ふいに現れた得体の知れない者を受け容れる村人たち。風土が生んだようなおおらかな顔と共同体としてのまとまりは、見ている者の心に呼応して、自らの内なる声を呼び覚ますようです。この受容の精神も田代の魅力のひとつ。雪深い東北の風土が生みだした生きる姿勢でもあるのです。

記憶を記録して、未来に残したい

土方巽は、戦後の急速な欧米化の中で、日本独自の舞踏様式を確立した舞踏家です。土方が完成させた暗黒舞踊は賛否をよび、世界的にも「BUTOH」(ブトー)として関心を集めて拡がりました。
モダンバレエを入り口とした土方が、ある時期から根源に立ち返り「闇からうまれた」と称した踊りの背景には、故郷秋田の影響がありました。西洋が手足を伸ばした光のダンスだとしたら、舞踊は腰を落としガニ股で大地をしっかり捉えた闇のダンス。その原点が幼い頃に父と訪れた田代の原風景であり、この地に伝わる西馬音内の盆踊(にしもないのぼんおどり)にも通ずると言われます。

一方、細江英公も昭和19年に東京から山形へ疎開。幼少を東北で過ごした懐かしい記憶があり、時代から消えつつある自分の大事な記憶を写真で残しておかねばならないと強い思いを抱いていたようです。

魂が先か、肉体が先か

行き先も告げられず、細江英公は土方巽に導かれて田代を訪れ、打ち合わせもないまま撮影が突然始まったといいます。舞踏家と写真家の火花散るセッションのような緊迫感が奇跡ともいえる写真を残しています。

鎌鼬 作品37   細江英公 写真集「鎌鼬」より

田んぼを縦横無尽に駈ける土方の腕の中には、飯詰(いいづめ)からさらわれた赤子。飯詰とは、おひつ代りに幼児を入れて育てた藁製(わらせい)のゆりかごのこと。嬰詰(えいづめ)ともよばれ、親が田んぼで働いている間は畦に放置されたと記録されています。足をギュッと曲げて堪えた幼き頃の皮膚感覚の記憶を土方も持ち合わせていて、宇宙に響くような赤子の泣き声とともに自らの淵源を遡ったのかもしれません。母胎の土に潜伏していた土方の魂が解放されたかのよう。こうして田代が舞踏のメッカとして、認識されてきました。

3階建て、黒漆喰磨きの座敷蔵を修復

1991年、土方巽の没後5年。細江英公は「鎌鼬」の撮影場所が田代であったことを知り、村人たちと再会を果たします。26年越しの再会まで、村人たちは同じ記憶を秘めながら、なぜか誰にも語ることがありませんでした。そして撮影時の非礼を詫びるため再来した細江は、今ではすっかり中年となった少年少女たち、老年となった村人が笑顔で迎えてくれたことに感銘を受けたそうです。あの日の記憶が共鳴した場で、記録としての鎌鼬美術館の構想がもちあがり、NPO法人「鎌鼬の会」の発足が決まりました。

取材協力:NPO法人「鎌鼬の会」事務局長 阿部久夫さん(左)と副理事長 菅原弘助さん(右)

美術館は「鎌鼬」の撮影場所でもあった大地主の「長谷山邸」にある3階建ての蔵を借り受け、文化的にも希少な黒漆喰磨きの座敷蔵を修復し活用しています。展示品は土方巽の研究資料を収蔵・蓄積する慶應義塾大学アート・センターが協力。「鎌鼬」の初版本や高級和紙に印刷された巻物、ネガフィルム(コピー)など貴重な数々が並びました。

1902年に建築された座敷蔵
究極の左官技術といわれる黒漆喰磨きで、大切な客を泊めもてなすだけでなく大切な行事に使われた(左)鎌鼬美術館の館内(右)

運営の仕組みが整ったものの、町立にならず約1200万円もの資金を寄付やクラウドファンディングで集めることになりました。「今やらなければ、二度とできない」と奮闘した鎌鼬の会の有志たち。見つめる先には美術館の開設だけでなく「茅葺き民家のある里の風景を残したい。そこで暮らす人がずっと住み続けられるようにしたい。」という未来への願いでした。

念願かなったのは、土方の没後30周年となる昨年10月。土・日・祝日のみの開館で冬季閉館となるまでの1ヶ月間に約800人が訪れました。2017年は4月から現在8月までで約1,300人。アメリカ、ブラジル、ドイツ、インドネシア、南アフリカ共和国と海外からも舞踏家や研究者、学生が集います。

鎌鼬 作品8   細江英公 写真集「鎌鼬」より

茅葺きの里にみる、真の豊かさと美しさ

「鎌鼬」の舞台となった田代は、今でも茅葺き民家と稲架が点在する里です。茅葺きの屋根は、自然のままで断熱性と通気性に優れた気持ちのよい空間を保ち、朽ちても土に還ります。厳しい自然と折り合いをつけながら培った、叡智の恩恵ともいえる住まいは次の世代への贈りものとなりそうです。しかし過疎化が進む町では後継者が不足し、放置されてしまうことも。1988年には258戸あった茅葺き民家が今では60戸に満たないほど減少しています。阿部さんは町に働きかけ、全国的にも減少する茅葺き職人の育成を行い、茅葺き民家の維持にのりだしています。

稲架(はさ)の縦棒は腐りにくい栗の木を使い、冬も打ち込んだまま。50~70年使用しており、「鎌鼬」撮影時のものが残っている可能性がある

そして永い間受け継がれてきた稲架干しの、ゆっくり自然乾燥させる米づくり。その収穫後の藁を食べさせ育てる羽後牛と、その堆肥を土へと循環させていく農法が今も行われています。
田代への来訪者は、土方の痕跡を求め「鎌鼬」を慕う写真愛好家や舞踏家・舞踏研究家のほか、茅葺き民家に泊まってみたい旅行者など様々。鎌鼬の里は日本の原風景を求める人々を呼び招く場所といえそうです。

文:橘 聖子

TOP写真:鎌鼬美術館(かまいたちびじゅつかん)

イベントのお知らせ
鎌鼬の里芸術祭
2017年9月23日(土)~24日(日)11:00~18:00
旧長谷山邸(雄勝郡羽後町田代字梺67)
入場料 500円
主催:特定非営利活動法人 鎌鼬の会
【お問い合わせ】鎌鼬の会 事務局 0183(62)5009

鎌鼬美術館(かまいたちびじゅつかん)
〒012-1241  秋田県雄勝郡羽後町田代梺67-3
開館日は土・日・祝日のみ
開館時間は午前10時~午後4時半
入館料300円(高校生以下無料)
連絡先は鎌鼬の会事務局 0183(62)5009
Facebookページ:鎌鼬美術館