ローカルニッポン

ゴミ拾いから始めよう 養老渓谷観光協会の再挑戦

11月下旬から12月上旬の養老渓谷

東京湾に流れ込む養老川の上流、房総半島でも最も奥深い場所に養老渓谷はあります。標高の低い千葉県の中でも最も山深い山間部に当たるこの地域は、関東一遅い紅葉が楽しめる地域と言われており、秋には紅葉狩りに来る観光客が大勢押し寄せます。

天気も落ち着き、気持ちの良い秋晴れが続くようになった10月下旬、養老渓谷観光協会による一斉清掃が始まりました。毎年11月後半に訪れる紅葉シーズンに向けて、旅館の亭主や商店主を中心に総勢40人の会員が一斉に街の掃除をします。川沿いの遊歩道はもちろん、駅から渓谷へと続く道の草刈り、川の中のゴミをひろいます。

一斉清掃は12年前から始まった取り組みです。この取り組みを主催する養老渓谷観光協会は12年前まで活動を休止していました。それがなぜ再び動き出したのでしょう。その裏には地域の方々の地域に対する危機感と強い思いがありました。

観光地になる前の養老渓谷

養老渓谷観光協会の会長であり、10年前に観光協会を再発足させた秋葉保雄さんは養老渓谷温泉街の玄関口に立つ温泉旅館喜代元の亭主です。代々続く旅館の家に生まれた秋葉さんにとって養老渓谷は暮らしの場でもあり、遊びの場でもありました。

幼少期、毎日のように旅館の下を流れる養老川で過ごし、その場で竹を切って竿にし、餌となる虫を捕まえ、雑魚を釣っていました。宿泊客も旅館の軒下に吊るされた釣竿を片手に、浴衣で川へ降り、釣りを楽しんでいました。簡単に釣り上げる地元の子供達に魚を売ってくれと頼む宿泊客もいたそう。

また、黒湯と呼ばれる褐色の鉱泉も生活用水として使っていました。湧き出る鉱泉を天然ガスで温め、各家庭で風呂用に使っていました。初めて東京の銭湯に連れて行ってもらった時に、透明のお風呂に驚いたそう。

もともと養老渓谷温泉街は行商が泊まる宿として使われていたのが始まりだそうです。今では関東一遅い紅葉として有名になったモミジも特別に植えたわけではありませんでした。

夏の養老渓谷

暮らしの場から観光地へ

養老渓谷が、観光地となったのは、養老渓谷の自然の魅力に惹きつけられた人々が徐々に増えていったからだと秋葉さんは言います。

そこには魚の釣れる綺麗な川と滝があったため、川遊びや滝巡りを楽しむための橋や遊歩道が作られ、その周りに紅葉が美しい落葉樹の山があったため紅葉狩りを楽しむためのハイキングコースができました。さらに、養老川で釣れた川魚や、山でとれた山菜を使った料理を楽しめる食堂ができ、疲れたお客様が体を休めるための新たな温泉宿も立ち始めました。

こうして行商が泊まるための宿街が観光客をもてなす温泉街へと変わっていきました。養老渓谷が徐々に観光の名所へと変わっていったのです。

旅館のすぐ下を流れる養老川

街の課題

こうして、観光地となった養老渓谷には新緑、紅葉、養老川、温泉を目当てにたくさんの観光客が訪れるようになった反面、問題も起こるようになりました。

観光客が車を止めるための共用駐車場や共用トイレの不足、車道の渋滞が起きるようになりました。そのため街全体を安心して歩くことができなくなってしまいました。観光客が押し寄せるようになったことで、ゴミも増えました。

また案内用の地図がなかったため、現地の店主や宿の主人が、街全体を案内することができなかったのです。それまで各旅館や各商店は、そういう状態に気付きながらも、なかなか対応に踏み出せずにいました。このように観光地としての整備が全くできていなかったのです。

秋葉さん:
『このままじゃいけないと思ったんです。養老渓谷観光協会という団体も昔から存在していたんだけど、10年前の時点では、休止状態だった。だから再発足のタイミングを伺っていました。まずはみんなが街全体のことを考え行動しないといけない。そのために観光協会を復活させて、まずはゴミ拾いから始めようと声をかけ始めたんです。街全体が良くならないと渓谷は良くならないと思ったんです。』

最初は数人から始まったこの取り組みも、今では行政区をまたぎ、養老渓谷の旅館や商店、飲食店、地域の住民までもが参加する取り組みに発展しました。ゴミ拾いが、みんなの思いを行動にするきっかけになりました。

秋葉さん:
『地域全体で活動するために、観光協会という集まりを再発足させる必要があると思いました。再発足させるにあたり、まず2年間は旅館組合主催でゴミ拾いを行い、仲間を増やし、2年後、観光協会を再発足させました。』

一斉清掃で集められたごみ

また、ゴミ拾いから始まった観光協会の取り組みはこの後様々な取り組みへと発展していきます。
マップづくりもその一つです。案内用のマップがなく、『養老渓谷ってどこ?』と聞かれると、案内するのに困っている状態でした。最初は自分たちで歩きまわり、巻き尺で道を測るところからスタートした地図作りも、今では、養老渓谷の全ての名所や商店情報が記載された地図になりました。それぞれの宿や商店、食事処や名所に置かれ、街の人が自分でお客様を案内できるようになりました。

街はみんなのもの

道普請という言葉を知っていますか。道はみんなのもの、だから道はみんなで綺麗にするもの、という考え方です。古くは道作りなどの公共事業から始まり、現在は道の草刈り、ゴミ拾いなどに通じます。

養老渓谷を歩くと道の美しさに気づきます。綺麗に手入れが行き届いた生垣や、隅々まで刈りそろえられた土手、ゴミひとつ落ちていない遊歩道を気持ちよく歩くことができます。また、この地域の人々は、自分の家の庭よりも先に、道に面した外側の垣根や土手を綺麗にします。
道はみんなのもの、みんなで綺麗にするもの、そんな意識が染み付いているのかもしれません。

今年のゴミ拾いは例年の数倍の量のゴミが集まりました。9月から10月にかけて房総半島に猛威を振るった台風により、上流の土砂や倒木、ゴミが養老渓谷にも流れ込みました。土砂崩れがあちこちで起き、今でも通行止になってしまっている遊歩道があり、養老渓谷まで観光客を運ぶ小湊鉄道は11月下旬の時点で山間部での運休が続いています。
そんな状況でも大勢の住民が集まり、紅葉狩りに来るであろう観光客を迎える準備を行いました。

また、養老渓谷では「昭和45年の集中豪雨」という今でも語り継がれるほどの大きな災害がありました。降り続いた雨は水かさを増し、養老川は決壊しました。決壊した川の水は橋を流し、田畑を土砂で埋め、温泉街の宿や商店に流れ込みました。この時の集中豪雨が原因で、畑や田んぼを諦めたり、家を高台に移した住民が多数いたそうです。しかし養老渓谷の住民は災害に負けることはありませんでした。その度に田畑を作り直したり、家を高台に移すなどして、災害に負けない地域が作られてきました。

昭和45年の集中豪雨で氾濫した養老川

地域がよくなることが先。地域がよくなれば自ずと自分もよくなる。
そんな意識が染み付いている地域は、どんなことがあっても街全体で立ち上がる強さを持っているのかもしれません。強い街をつくるために、まずは小さなことから始めてみることが大事だということをこの取り組みから学ぶことができそうです。まずはゴミ拾いから始めてみませんか。

文 高橋洋介/写真 市原市観光協会、高橋洋介