ローカルニッポン

繋がる小さな経済循環 3 関東郡代伊奈氏と赤山城跡

日本資本主義の父として日本の近代化に多大な貢献をした渋沢栄一は埼玉県の偉人ですが、川口市にも江戸時代、関東に偉大な業績を残した伊奈一族がいたことを知る人はほとんどいません。しかし、橋を架けた人の名前を知らなくてもその恩恵は末永く続くように、伊奈一族の遺した恩恵は知らず知らずのうちに今の私たちも受けているのです。今回は知られざる伊奈氏の歴史を広め、まちづくりに活かす『新井宿駅と地域まちづくり協議会』歴史部会の活動を紹介します。

赤山城跡

川口市の北東部は大宮台地の先端が張り出しており、起伏に富み雑木林や畑が広がる緑豊かな環境を有していて、賑やかな川口駅周辺や市の大半を占める平坦な住宅街とは一線を画しています。

その台地の長閑な田園風景の中に江戸時代初期から中期まで163年間、幕府代官伊奈氏の居城(陣屋)がありました。伊奈氏とは三河以来の徳川氏の家臣で、始祖忠次(ただつぐ)より12代に渡り関東の諸代官の頭として活躍した一族です。

赤山城跡は1629年、赤山領7千石を賜った伊奈半十郎忠治(ただはる)が自ら荒地を拓いて築きました。本丸、二の丸、家臣団屋敷まで含めると77haという広大な敷地で、現在の川口市赤山という地名はかつての赤山城跡(陣屋跡)の土地がそっくりそのまま「赤山」という地名になっています。菩提寺の赤山源長寺には今も伊奈家代々の当主が眠っています。

川口・赤山にある赤山城跡。春には桜が咲き誇る

400年前のプロジェクトX

伊奈氏の事跡は数々ありますが、代表的な事業である利根川東遷について紹介します。
2019年に全国に多くの被害を出した台風19号はまだ記憶に新しいかと思います。あの時、各地で起こった河川の氾濫の映像と共に、東京埼玉の人は荒川や利根川の水位を固唾を飲んで見ていました。それは両河川が氾濫すれば壊滅的な大災害になると誰もが知っていたからです。幸い氾濫に至らず胸をなでおろしたのですが、同時に首都を守る治水の強靭さも知ることになりました。

もし利根川が東京湾に注いでいたら?もしこの川が埼玉東京を縦断して隅田川と繋がっていたら?利根川の流域面積は日本一。しかも途中で荒川を合流していたとしたら?間違いなく台風が来れば東京埼玉は水没することになります。

その光景を目の当たりにしたのが徳川家康でした。
1590年豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、徳川家康は秀吉の命で三河遠江などの旧領を召し上げられて北条氏の領地であった関東に移封させられます。初めて関東に来た家康一行は武蔵野台地の縁にある江戸城から見た景色に愕然とします。東は汐入の入江、西は茫漠たる武蔵野の原野、そして何より水とも陸とも区別がつかない湿地が北東に果てしなく広がり、そこに利根川・荒川・渡良瀬川などの大河が合流と分岐を繰り返し、網の目のように流れていたのです。

城作り、町つくり、飲料水の確保。やるべきことは山ほどありましたが、日常的に洪水を引き起こすこれら大河を治めなければすべては水泡に帰すのです。しかしそれは誰の目にも不可能に思えました。家臣たちが途方に暮れる中、家康だけはこの江戸の、関東の可能性を見ていました。「この大河を治めて江戸を日の本一の町にする。」そして家康は一人の男を呼びます。関東代官頭伊奈忠次。初老ではありますが、めきめきと頭角を現してきた有能な官僚です。その伊奈に告げます。「利根川を東に遷せ。そして関東を思うままに開発せよ。」
ここに史上空前の土木事業「利根川東遷」がスタートしました。

伊奈氏の事跡マップ。関東は伊奈氏によって作り変えられた。(画像提供:AGC歴史部)

利根川東遷がもたらしたもの

武蔵国(東京埼玉)東部は下総台地と大宮台地の間が平らな窪地になっていて、それは江戸湾にまで続いていました。そこに渡良瀬川、利根川、荒川という大河が流れていたので、氾濫が常襲して広大な土地が手つかずの湿地帯になっていました。利根川東遷とはこの窪地に大河が流れないようにその手前で進路を東に変えるということです。

荒川は越谷で利根川と合流していましたが、これを上流の熊谷で流路を変え、入間川に付け替え(荒川の西遷)、利根川は栗橋で渡良瀬川と合流させ、その流れを下総台地を掘りそこに導き(江戸川の開削)、鬼怒川と小貝川を分離して常陸川上流に付け替え、その常陸川と利根川の分水嶺を掘り割って繋ぎ(赤堀川の開削)、ついに利根川の水を銚子沖の太平洋に流すことに成功しました。

現在ある関東の河川は、そのほとんどが伊奈氏の手によって流れが変えられたのです。それ以外にも用水路の開削、遊水地の築堤、街道の整備、新田開発など、延々と工事を続け一応の完成を見たのは60年後の1654年。伊奈忠次から忠治、忠克と3代に渡りました。

利根川や荒川の水量は当時も今も変わりありません。利根川が東京湾に流れるという最悪の状態をこの時代に解決してくれたからこそ今の東京があります。関宿のスーパー堤防の上から利根川を眺めると、「これを手で掘って流れを変えたのか?」と驚くはずです。工事の間は始終、資金不足、人足不足、アクシデントに悩まされましたが、農民、地元領主などと心を一つにして乗り越えたと伝わっています。まさに江戸のプロジェクトXです。

東遷のもたらしたものは洪水の軽減、湿地帯の干拓、水運による物流など多岐にわたります。関東は大穀倉地帯に生まれ変わり、水運は江戸の生活を支え流域の村々を豊かにしました。世界に冠たる首都圏の基礎はこの時に作られたのです。

その後の伊奈氏

利根川東遷を成し遂げ関東諸代官の長であった先代達に劣らず、その後の伊奈氏も有能であり、農民寄りの施政を貫きました。幕府機構が整備されるにつれ権限が縮小されていくのですが、相変わらず農民たちの支持がありました。そのため幕府が匙を投げるような災害や一揆などがあると矢面に立って収拾しています。

しかし1792年にお家騒動が起こり、当主の不行跡を咎められ関東郡代を失脚、お家も改易になってしまいました。ここに代官の最高峰であった伊奈家の歴史もあっけなく幕を閉じたのです。赤山陣屋も破却され周辺の農民に払い下げられると畑や雑木林の中にわずかに堀跡を残すのみとなりました。

伊奈氏の歴史を郷土の誇りに

新井宿駅と地域まちづくり協議会歴史部長大戸昭広さん

「伊奈氏」の栄光を地域の人に紹介するべく研究を続けている、『新井宿駅と地域まちづくり協議会』歴史部長の大戸昭広さんに話を伺いました。大戸さんが「伊奈氏」に関心をもったきっかけは何だったのでしょうか。

大戸さん:
「2011年に東日本大震災があって復興が遅々として進まない時期に、新田次郎の『怒る富士』という本を読みました。それで被災地の復興に尽力した殿様のような存在が、まさに地元にいたことを知ったのがきっかけです。そしてなぜか川口市民でもほとんど知る人がいなかったので、分かりやすくまとめて広めようと思いました」

「伊奈氏」の歴史を地域の人たちに伝えるために大戸さんは様々な方向で活動盛んです。
実際の伊奈氏の事跡がある場所を訪れ小冊子にしたり、歴史資料を作成しイベントでは資料展示や講義で伊奈氏を解りやすく説明。歴史初心者でも楽しめる内容になっていると好評です。

面白いところでは、伊奈氏の事跡を訪ねるバスツアー。自ら企画し毎回違った伊奈氏ゆかりのコースは歴史好きが集まり毎回参加者が増えているそうです。このような活動は、地域の歴史に関心がなかった歴史初心者にとってとても優しい取り組みだと思いました。誰でも参加できるそうなので歴史の偉人に思いを馳せてみてはどうでしょうか。

「イイナパーク川口」(赤山歴史自然公園)伊奈忠治像(左)歴史自然資料館(右)

その活動も影響したのでしょうか。今改めて地域で伊奈氏が注目されています。
2018年4月にイイナパーク川口がオープンしました。イイナパークは「伊奈氏」と「良いもの」から連想される愛称だそうです。そして同年11月に伊奈氏に所縁のある2市1町の首長が川口に集まり「伊奈サミット」を開催しました。以降協力して伊奈氏を顕彰していくことで合意しています。市も伊奈氏をまちづくりの一つとして考えてくれているようで嬉しいと大戸さんは言います。

伊奈氏一族の歴史をまとめるのは大変だったと思います。長い間調べていく中で興味深いエピソードなどはありますか。

大戸さん:
「宝永年間に富士山が噴火して甚大な被害を被った御殿場市や小山町を調べている中で、7代伊奈忠順に救われた現地の方々と交流を持てました。現地の講演会に招かれたのですが、私たちの作った小冊子を持っていたのでビックリしました。じつはご当地と川口は100年前にも伊奈氏の顕彰事業で交流があったことがわかりました。100年後にも交流があるのかどうか興味深いですね」

大正5年宝永噴火被災地と川口の交流。右から2番目は15代当主伊奈忠勝氏。源長寺。(画像提供:AGC歴史部)

大戸さんは「良い街」には必ず住民に郷土愛があるといいます。
歴史に残る偉業を果たした伊奈氏は後世の人たちの誇りになり、我が街川口を良くしたいという思いに繋がるのではないでしょうか。歴史というと難しいイメージですが、伊奈氏をもっと身近に感じられるようにドラマや小説になってほしいと思いました。河にかかわりが深い伊奈氏が題材ですので大河小説間違いなしです。

伊奈氏は安行の植木、のらぼう菜など地域の特産物を推奨していました。
次回は地域の特産品として高く評価されていた秘伝の「赤山渋」を紹介します。

文・写真:ミモデザイン