ローカルニッポン

「働き者でベッピン」鹿沼箒

栃木県指定伝統工芸品の鹿沼箒(ほうき)

栃木県鹿沼市は、東京から約100km、関東平野と日光連山が出会う場所にあります。市域の7割が森林を占め、標高1500mの高原を源とする幾筋もの川はいずれも清流で知られています。古くは宿場町として栄え、日光東照宮修営に集まった職人たちの技や文化がこの地に残されました。

その鹿沼市で生まれた伝統工芸、「鹿沼箒」について民藝運動の父、柳宗悦は著書「手仕事の日本」の中でこう記しました。
「おそらくどこの産の帚よりも広く行き渡っているでありましょう」

鹿沼箒の始まりは1841年(天保12年)。江戸は練馬から座敷箒の材料となる箒きびの種が鹿沼市に持ち込まれ、栽培が始まりました。その後、土に合ったのか鹿沼では良質の材料が生産され、材料だけでなく座敷箒の製作も盛んになります。

さらに、兼業ではなく専業の箒職人の育成が行われ、技を磨き腕を競い合い、「より丈夫で、より長持ちする箒」が開発されました。それが蛤(はまぐり)の形が特徴の鹿沼箒です。

一般的な座敷箒をつくる技法は、柄を固定する部分をいくつかの“玉”に分けて組み上げていく方法です。一方、鹿沼箒は組みの部分を全体で一つの大きな玉にまとめ上げることで柄とより一体化させるのが特徴です。

さらに、柄を固定する部分の草を割き細くすることで細かな編みを施します。均一に細かく編むほど、柄と一体化し丈夫で長持ちする箒になるのです。

こうして、明治十年頃鹿沼箒は、この美しい編み目と丈夫さから“働き者でべっぴん”“整美にして弱ならず”と評され、日本中に行き渡りました。

そのため、最盛期の昭和初頭頃には、鹿沼に「箒屋千軒」といわれたほど“箒の町”となりました。しかし昭和30年代後半の掃除機と海外産の安価な座敷箒の登場により、昭和42年になると箒職人は30名までに減ってしまったのです。そして2006年、伝統的な鹿沼箒を作ることのできる職人は私(書き手)の祖父「青木行雄」ただ一人となりました。

その後、2007年、祖父と二人三脚で箒を作ってきた祖母が急死。職人らしくいつも毅然としていた祖父は、抜け殻のようになってしまいました。私の両親は共働きだったので、幼い頃は祖父母に預けられることが多く、私は鹿沼箒を作る祖父母の姿を見て育ちました。

祖母を亡くして気落ちする祖父を元気づけたくて、“仕事を手伝う”を口実に工房へ通うようになりました。祖父を手伝いながら、改めて鹿沼箒の歴史や技術を知ることになり、私はその魅力に夢中になりました。

“丈夫で長持ち”する箒を作るということは、買っていただいた一本は一生物となり、沢山売ることはできないということです。それでも、使い手が心地良く掃除できるよう、掃きやすく見た目も美しく、さらに一日でも長持ちする箒を手間を惜しまず技を尽くしてつくる。使う人を想い、物を大事にする精神に、“なんと美しい伝統だ”と感激しました。そして私は手伝いとしてではなく、後継者として、修業の道を選ぶことになったのです。

原材料は箒の要!どう育てるか

“丈夫で長持ち”の鹿沼箒を作るには、良質の箒草(箒きび)が欠かせません。鹿沼箒の歴史は箒草栽培から始まり、前述の蛤型の開発と同時にさらに良質な箒草を求めて、品種改良も熱心に行われてきました。

今、我々の手に伝わる箒草の種は、江戸から明治にかけて「東洋種(モロコシ種)」「西洋種(ボストン種)」「台湾種(ブルーム種)」を交配し、鹿沼箒に適するよう品種改良されたものです。種だけでなく栽培、収穫後の処理も鹿沼独自の方法です。先人たちの向上心には感心せずにいられません。

原材料の箒草(箒きび)と鹿沼箒

ところが私が鹿沼箒職人の道を歩み始めた2007年、鹿沼市内には箒草栽培者は一人もいませんでした。そもそもの箒離れだけではなく、海外での箒草栽培が主流となり、国内での栽培はほぼ途絶えていたのです。私の修業の為にと、祖父の従兄が栽培を再開してくれたのもつかの間、2009年に急死。栽培方法を教えていただく間もないほどでした。

その後は、海外産の利用や自家栽培への挑戦等、試行錯誤を重ねました。自ら栽培してみて、農の厳しさを知るとともに、海外産を試すことで鹿沼産の質の高さを改めて実感しました。

当時、原材料の取引方法は大正時代から変わらず“重量換算”で、質は査定されず、箒にはできない草が多くありました。本来なら、箒は軽く穂のしなやかな物が掃きやすいはずで、重量換算では原材料の質を上げるのが難しくなります。取引方法を見直す必要も感じました。

様々な実感を通して、「これから鹿沼箒を作るなら材料は、“鹿沼産”を “適正な価格”で、さらに次世代に残すのに“無農薬栽培”にしたい!」と決めました。
そして、栽培法や質、取引について一から話し合い、信頼関係を築き、この鹿沼の地で共に歩んでくれる栽培者を探し始めたのです。

とはいえ、簡単には見つかりません。箒草(箒きび)の栽培は春から、収穫は真夏の炎天下での手作業です。経験者からは「箒草はキツイ上に金にならない」とされていました。そのうえ、過去に例のない無農薬を希望しているのですから、今思うと無謀です。こうして、箒を作れない日々が2011年まで続きました。

それぞれの活動に共感、手を繋ぎ共に歩む

栽培風景

現在は周りの協力のおかげで、鹿沼市内で2軒の栽培者が箒草を生産しています。
「最高の鹿沼箒を作る」と、同じ目標を目指し二人三脚で進んでくれる方々です。

2011年、地元の商工会が「若手農家さんが挑戦してくれるかも」と紹介してくれた、当時26歳の廣田健二さん。当時、栽培が途絶えていたので、私の手元には一握りの種しかありませんでした。その種を増やすことから始め、指導者もない中で栽培を引き受けてくれました。廣田さんは町で出る廃棄物から肥料を作り、それを栽培に利用しています。
廣田さんの言葉です。

廣田さん:
「人が意図した場に意図した植物を栽培するのに肥料は必要です。もし何も供給せず、収穫するのなら、それは搾取になります。現在肥料には、おから、ビールかす、コーヒーかすなどを使っています。お金と労力をかけて処分される、産業廃棄物と呼ばれるものです。いわゆる“ごみ”を使うことで、処分するためのコストが無くなり植物に“供給できるエネルギー”になります」

私は、彼の農への取り組み方や思想に共感し感銘をうけ、栽培をお願いしています。

もう一軒の栽培者は、2017年から連携している市民団体「活きいきこっとん村」です。宇都宮大学のユニバーサル農業を研究するチームからの紹介で出会った「こっとん村」は、地域包括ケアシステム推進事業の一環として活動しています。

ここで活躍するのは、障害や気質が原因でひきこもりがちだった若者や元気でも自宅にしか居場所のないお年寄りです。地域住民から提供された畑で、みんなで力を合わせ、無農薬で野菜や綿花を育てています。難しい条件のなか、箒草の栽培を引き受けてくれました。

力仕事も細かな作業もそれぞれができることを担い、力を合わせて栽培しています。誰もが地域の中で暮らし続けていけるよう、老若男女やハンデを問わず協力し合う彼らの活動に強く共感し、栽培をお願いしています。

さらに、こちらでは、栃木県立栃木農業高等学校 農業環境部のご協力をいただき、データ収集や解析、他県の栽培者との情報のやり取りもしています。まだ手探りですが、試行錯誤しながら育ててくれた草の状態を査定し話し合い、翌年の栽培に活かすことを繰り返して、年々、質も量も上がってきています。

こっとん村のみなさん

こっとん村 播種作業もみんなで力を合わせて

鹿沼箒を作る技が伝統であるように、植物が育つ土地、育てる技術も伝統であり地域の宝です。それだけでなく、土、環境、共に暮らす人々、それらを大切に想う心も宝です。

「どう育てるか」を選ぶことは「未来に何を残せるか」に繋がります。
土地と人を想い、栽培を続けてくれる彼らの取組みが、鹿沼箒とともに次世代へ受け継がれていくことを願いながら、一緒に歩んでいきたいです。

一歩ずつ進んできた、その未来は

伝統的な鹿沼箒の職人は、現在私一人です。
今後を不安に思うこともありますが、私が大切にしている言葉があります。

「“技術”が残るか決めるのは、世間様」

祖父、青木行雄の教えです。私ができることは“掃きやすい箒を作ること”、使い手にとっての“良品”を製作することだけです。祖父は「人のために技を尽せ」「驕るな」と伝えたかったのでしょう。行先に迷うときはこの言葉を思い出し“使い手にとっての良い箒”を作る道はどれ?と考えてみます。

“掃きやすい箒”とはどんなものでしょうか。箒が生まれた江戸時代と現代では生活様式は大きく変わっています。でも、人が“掃く”という動きは人体の構造が変わらない限り同じです。つまり、“掃きやすい箒”とは、江戸も令和も同じはずです。だから、基本的な構造は伝統のまま、手を加えません。

指でなでるようにしなる穂先
サァサァと穂が擦れる音
掌にスッとなじむ柄竹のすべらかな感触
箒を使う“心地良さ”はいつの時代も変わりません。

今だからこそ、始めたこともあります。“廃棄しない”ことと“廃棄するとき”のことです。まず、生産者が懸命に育てた材料を“廃棄しない”ことです。鹿沼箒にできるのは、栽培されたうちのたった20%です。丈夫で長持ち、掃きやすい箒を目指すには、サイズも均一でなければならないので仕方のないことなのですが、残りの80%にはサイズや変色などの理由ではじかれ、質には問題ないものも多いです。

これらは、より細かに仕分けをして、小箒や細工物などにします。小箒は規格を決めず、状態に合わせて一番掃きやすい形にしていきます。この方法で廃棄は減りましたが、サイズがバラバラなので量産や卸販売などが難しいのが課題です。

次に”廃棄するとき”です。長年使える鹿沼箒もいつか役目を終える日が来ます。その時に、自然に負担の少ない方法で処分できるよう、すべて土に還る素材で鹿沼箒の製作も始めました。「土に還る鹿沼箒」は、本の修復などに使われる麻糸を使い編んでいます。役目を終えた箒が眠る土で青々と草が伸びる景色を思い浮かべています。

左が『土に還る箒』 右が従来品

現状では、鹿沼箒の量産は難しいでしょう。それでも、できることから一歩ずつ『次世代へ残したい未来へ』と歩み続けます。

時々、子や孫、さらにその子供たちに、美しい鹿沼箒を、緑の育つ畑を届けることができるのかと想像してみます。土地や人を想うこと、懸命に作ること、人の手が作る物の温もり、それを感じ受け取り大切にする心が消えない限り、きっと伝わり繋がり続けると私は信じています。

文 :増形早苗
写真:藤嶋泰子、こっとん村