「ガリ版印刷」という言葉を聞いたことはありますか?
かのトーマス・エジソンが19世紀後半に考案した仕組みを元にした、「謄写版」とも呼ばれる手刷りの印刷方法です。現在のようなコピー機が普及する前、明治~昭和初期の印刷物…例えば学校のお便りや文芸誌、軍の資料などが、ガリ版印刷で刷られていました。昭和世代の中には、懐かしい!と思う人もいるかもしれません。
デジタル化が進む中で印刷にはスピードや均一性が求められるようになり、印刷手法としては今や過去のものになったガリ版。ですが、どこかレトロチックな愛らしさに魅せられた後藤早智子さんは、2022年に「後藤ガリ版印刷所」を立ち上げました。
場所は、福岡県久留米市。九州一の大河・筑後川が悠々と流れ、川に沿って筑後平野が広がっていて、アナログな作業に没頭するにはうってつけの地です。後藤さんは大学で日本画を学んだ後、福岡の美術館に勤めていましたが、ガリ版印刷との出会いを機にこの場所を選び、本格的に活動を始めました。後藤さんの温かく愛嬌あるイラストとガリ版印刷の良さが組み合わさると、なんとも味のある作品ができます。
後藤さん:
「ガリ版で引いた線は均一ではなく微かに震えるようで味わい深くて、一気に好きになりました。それで雑貨やアートをつくろうと思ったものの、ガリ版の道具をつくっているメーカーさんってかなり減っていて。ネットオークションやアンティークショップで見つけては、必要な道具を片っ端から入手しました。この先新しく生産されることはほとんどないので、古い道具を大切に使っています」
ガリ版印刷では特殊な道具を使うため、道具がなくなればもうガリ版が消え去ってしまう…! そんな現状を知り、より多くの人にガリ版の良さに触れてもらいたいという思いが後藤さんの中に芽生えたといいます。今ではイベントに出かけてワークショップを行うほか、自身の印刷所で教室を運営し、自らの作品を制作する毎日を送っています。
ゆるりと印刷する楽しい作業
ガリ版印刷の版となるのは、透けるほど薄い紙をロウでコーティングした「ロウ原紙」です。鉄製のやすり板に下絵を描いた紙を乗せ、その上にロウ原紙を重ねて、ペン先が鉄になっている「鉄筆」でロウ原紙表面のロウを削るように下絵の線をなぞっていくと版が完成します。「鉄やすり」に細かい凹凸があるため、自然と線に揺らぎが生まれます。
次に版を刷り台にセットして、インクをローラーで乗せて一枚ずつ印刷します。ロウを削った部分からインクが染み出て、印刷できるという仕組みです。ロウ原紙は薄くて繊細ですが、一枚の版でだいたい百枚ほど、上手くいけば数百枚も刷ることができます。インクの乗せ具合や、ローラーに込めた力の強さ、刷るものの素材によって仕上がりはさまざま。
後藤さん:
「刷ったものがガッカリな時もあるけれど、グッと想像を超えてくる時もあります。狙ったものにならないことも多くて、失敗もアリ。ガリ版がもつ“偶然性”は、制作の面白さの一つです」
地元製品がさらなる味わいを添えて
ガリ版印刷では普通紙のほか、布や木材、コルクなどにも刷ることができますが、何より後藤さんが好んで使うのが地元の手漉き和紙です。
ここ筑後地方は、筑後平野、筑後川そして緑深き耳納連山などを擁していることから、古より人々の暮らしとものづくりが密接に結びついている土地です。自然素材を上手に活用してものをつくり出し、それを使って別のものを生み出して暮らす——こうした手仕事と手仕事の連鎖で豊かになり、発展してきました。朝倉市秋月や八女市で江戸時代からつくられてきた和紙も、その一つ。丈夫さとしなやかさを兼ね備えているとして、元結(髪を結うもの)や建具、提灯、和傘などの日用品の材料として重宝されました。筑後川には、こうした優れた日用品で商いをする船がさかんに行き交っていたといいます。丁寧なものづくりが暮らしを支えてきたんですね。
和紙を手漉きする工房は時代とともに減ってきましたが、今でも一枚ずつ昔ながらの方法で生産されています。普通紙にはない、手漉き和紙の温もりある味わいが愛されています。
後藤さん:
「普通紙と和紙で比べると、インクの染み方や発色が全然違うんですよ。同じ職人さんが漉いた和紙でも、その季節やタイミングによって色調や繊維の現れ方も変わります。名刺やハガキをつくっていただくと、切れ端も直線ではなくて自然な“耳”が付いている状態。一枚ずつ違うのでより愛着が湧きます。ガリ版との相性がとてもいいですよね」
デジタルな印刷で重視される仕上がりのスピードや均一性とは真逆をいく、手刷り印刷ならではの非均一性、素材や偶然がもたらす一期一会。これがガリ版印刷の醍醐味です。版をつくり、刷るという作業だけでなく、印刷物の味わいにも、気持ちがほっこりするスロウな魅力があります。
地域おこしにも一役買って
後藤さんのガリ版印刷でつくられるイラストはアートとしても評価される一方、地元企業のPRや店舗ロゴなどにも使われています。久留米市からほど近いうきは市にある道の駅では、特産品のワインのラベルとして活用されています。
後藤さん:
「うきは市は果実の栽培がさかんで、柿もとても有名。商品にならなくて廃棄される柿を使った美味しいワインができたと聞いて協力させていただきました。時間と手間をかけ丁寧につくられたワインはガリ版ともイメージが合うと考えて、明治時代のマッチ箱のイラストを参考にして描きました」
ガリ版でつくったイラストをデジタルデータとして取り込んだラベルですが、線に揺らぎがあって手刷りの温もりが感じられます。ワインのつくり手の思いを伝えるだけでなく、ワインを買う人、飲む人にも丁寧でスロウな時間をもたらしてくれます。
後藤さん:
「ガリ版印刷は、手で一枚ずつ丁寧に印刷する作業自体も、またでき上がったものの味わいも、ゆるくスロウなことが魅力。筑後の人たちはものづくりが好きなので、ワークショップでもすごく楽しんでくれています。私もガリ版印刷が大好きでこの先も続けたいし、もっと愛好家が増えてほしい。個展やイベントへの出店で、引き続き多くの人にガリ版印刷の存在を知ってもらえたら」
後藤さんが、ガリ版印刷のワークショップに何度か参加したある受講者の話をしてくれました。年上の(というか高齢の)友達に手紙を書きたいという高校生が、オリジナルのレターセットをつくったのだとか。スマホで何でも完結できる時代に、自分で手刷りした便箋にメッセージを書く——贈られた人はどれだけ感激することでしょう。ガリ版印刷にはそんな味わい方もあるのかと気付かされました。
身の回りの日用品や贈り物を自分の手で丁寧につくるということは、ささやかでも嬉しいし、心が弾むもの。ある意味では贅沢なことかもしれません。ガリ版印刷は、普段の暮らしの中では見過ごしがちな、ものづくりの本来の楽しさを改めて感じさせてくれました。
文・写真:とがのみほ
リンク:
手刷り印刷屋「後藤ガリ版印刷所」