宮城県仙台市から車を走らせること約2時間。石巻市の中心部を通り過ぎ、太平洋に25キロほど伸びる牡鹿半島の端っこに、「ホエールタウンおしか」はあります。施設を運営する一般社団法人「鮎川まちづくり協会」のマネージャー田中由美さんと、チーフ学芸員山本龍治さんに、この場所が歩んできた道のりといまをうかがいました。
大規模なプロジェクトで、地元の事業者に寄り添う
牡鹿半島はリアス式海岸特有の入り組んだ地形をしており、“浜”という単位で呼ばれる小さな漁村が点在しています。「ホエールタウンおしか」がある鮎川浜もそのひとつ。住民は700人に満たない小さな浜ですが、海の向こうには古くから信仰の対象とされてきた金華山があり、観光地として親しまれています。
そんな鮎川浜の一番のアイデンティティが、“鯨”です。明治中期から捕鯨が始まり、鯨文化が発展してきました。「ホエールタウンおしか」は、そんな鮎川浜の鯨文化に触れられる施設です。
「ホエールタウンおしか」は、「観光物産交流施設 Cottu(こっつ)」と「牡鹿半島ビジターセンター」、そして「おしかホエールランド」の3施設から成ります。その始まりは、宮城県の海沿い一体に津波が押し寄せた震災直後でした。
田中さん:
「鮎川浜には8mを超える津波がきて、ここより海側はすべて被害にあったそうです。観光地だったので港側に店が並んでいたんですが、そこも被災してしまいました。私が初めてここにきたときは、ちょうど瓦礫が片付けられた後で、荒野というか一面空き地で、いまからは想像できない光景でした」
田中さんは、東京都出身。大学院で建築を学び、設計事務所勤務を経て、震災後は仙台市で行政の復興計画をつくる仕事を手伝っていました。そのときに、鮎川浜の担当をしていたことがいまにつながります。
田中さん:
「鮎川浜で被災した事業者さんたちが再建するにあたって、個々で再建するのではなく、観光施設の店舗として入居してもらう計画が立ちあがりました。その施設が後の『ホエールタウンおしか』です。2013年には再建を望む事業者さんが集まって、『鮎川まちづくり協会』の前身となる任意団体を発足しました」
たくさんの人が関わる大規模なプロジェクト。「ホエールタウンおしか」の計画を進めていくなかで、田中さんはその難しさを目の当たりにします。
田中さん:
「鮎川浜の観光を復活させるための施設なので、当事者である事業者さんたちの意見を設計に反映するべきなんですが、計画側と議論を進めるのが難しくて。何度も協議会でぶつかっていました」
事業者ともっと近い距離で話し、計画側との調整をはかることが必要だと感じた田中さん。2015年には「復興応援隊」という制度のもと、事業者の任意団体の事務局で働き始めました。
田中さん:
「公共の観光施設としてどうあるべきかをよく話し合いました。例えば、民間の施設だったら飲食店は景色のいい海側に並ぶのが一般的ですが、そうすると飲食店に入った方しか景色を楽しめません。公共施設なら、誰もが美しい海の景色を見てくつろげたほうがいい。だから、飲食店には山側に並んでもらって、海側はテーブルや椅子を置き、観光客や地元の方々が自由に憩えるスペースになりました。また、『ホエールタウンおしか』は軒が広く設計されているんですが、これはイベントなどで出店者がテントを張らなくてもいいようにという、事業者さんたちからの意見が反映されたものです」
「ホエールタウンおしか」は当初2017年のオープンを目指していましたが、遅れること2年、2019年10月に地元の事業者が飲食店や土産物屋をかまえる「観光物産交流施設Cottu」と、この地の自然や暮らしを紹介する「牡鹿半島ビジターセンター」がオープン。翌2020年7月には、牡鹿半島の鯨文化や鯨の生態を伝える博物施設「おしかホエールランド」がオープンしました。
また、それまであった事業者による任意団体は2018年に一般社団法人化し、現在の「鮎川まちづくり協会」ができました。再建を希望していた事業者は計画の遅れとともに減っていき、10事業者になっていました。田中さんのような新たに入るスタッフは逆に増え、現在は11名が「ホエールタウンおしか」の運営を担っています。
震災から10年近く経ち、満を辞してのスタート。一言で“復興”といっても、その道のりは平坦ではなかったことが、かかった年月からもうかがえます。そんななかを、田中さんは地元の事業者と丁寧に向き合ってきました。その姿勢はいまも変わりません。
震災を乗り越え、鯨文化を引き継ぐ
一方、学芸員の山本さんが「鮎川まちづくり協会」に加わったのは2020年。「おしかホエールランド」がオープンする数カ月前でした。和歌山県出身の山本さんは、ここに来るまでは東京の大学院で鯨の頭骨の研究をしていました。その一環で、鮎川浜にある捕鯨会社のもとに通っていたそうです。その捕鯨会社が「鮎川まちづくり協会」の事業者のうちの一社で、山本さんが修士過程を修了するタイミングで、「おしかホエールランド」のスタッフにならないか、と声をかけたそう。
それにしても、鯨の頭骨とはずいぶんニッチな研究です。
山本さん:
「もともと化石が好きで、そこから鯨に辿り着きました。鯨って、昔は陸の上にいたんです。鯨の祖先は5000万年くらい前に誕生して、よくキツネのような外見で描かれるんですが、近い生き物はカバでしょうか。それがやがて水のなかに入って、後ろ足がなくなったり、鼻の穴が頭のてっぺんに移動したりと進化しました。鯨が潮吹きをしているのは、鼻の穴からなんです。そういう進化の過程が、骨に現れているのが面白い」
イキイキと話す様子から、山本さんの鯨に対する好奇心が伝わってきます。「おしかホエールランド」の学芸員になるべくしてなったと思わせる情熱です。
いざ「おしかホエールランド」が営業を始めると、コロナ禍にもかかわらず、1カ月でなんと1万人近くものお客さんが訪れました。これには2人も驚いたといいます。
山本さん:
「『ようやく再開したね』とおっしゃるお客さんが多くいました。実はいまの『おしかホエールランド』は5代目なんです。鮎川浜では昭和5年に初めて鯨の博物施設ができて以来、ずっとそれを引き継いできました。ひとつ前の4代目は津波で流されてしまったんですが、それまでは20年近く開館していたそうです。だから、かつてのホエールランドを知っている方がたくさんきて、声をかけてくれました」
5代目のバトンを引き継いだ山本さん。現在はフロアでお客さんに解説をしたり、年3回の企画展やワークショップの準備をしたり、資料の保管や収集、骨格標本の製作などもしています。4代目が被災したときに、それまであった資料の大部分が流されてしまったそうですが、それでも山本さんは「少ないなかで、どれだけお客さんを満足させられるか燃えています」と前向き。大学院時代に身につけた3D技術なども駆使して、鮎川浜の近くを泳いでいる鯨を身近に感じてもらおうと、日々試行錯誤しています。
公共の観光施設だからこそ生まれる豊かな余剰
「くじら先生」の愛称で呼ばれる山本さんのお話は、楽しそうで聞いているこちらまでワクワクしてきます。そんな山本さんに会いにくるお客さんも、少なくないといいます。なかには「夏休みの自由研究を見てほしい」とやってきた親子もいたとか。
田中さん:
「スタッフもそうですし、Cottuに入っている事業者さんを見ていても、そこにいる人に会いにくるリピーターの方が結構います。『鮎川まちづくり協会』の代表は、長年地元で観光業を営んできた事業者なんですが、『ホエールタウンおしか』が開館したときに、こう教えてくれました。『観光は、施設やものに人がくるんじゃなくて、人に人がくるんだ』って。まさにその通りだなと思います」
観光施設として親しまれている「ホエールタウンおしか」。ここは同時に公共の場でもあります。地元の方が館内を散歩したり、テラス席に集まったりするのは日常茶飯事。
山本さん:
「昨年の夏は、テレビのある交流スペースで、みなさん甲子園の決勝戦を見ていました。テレビのチャンネルを変えられても私たちスタッフも何もいわないし、どんどん人が集まってきて、しまいにはお店の人まで顔を出したりして(笑)」
田中さん:
「観光客の方にも、地元の方にも、居心地のいい場所にしていきたいです。ここは、お金を使わなくてもいていいのではないかなと思います。民間の施設だとそうはいきませんよね。自然が豊かで、広いスペースがあって、公共施設だからこそできる余白というか、豊かな余剰をつくっていきたいです」
牡鹿半島で盛んな漁業は、天候や運に左右されることもあり、人々はお祭りを大事にしているといいます。昔からそれぞれの浜で、豊漁や漁師の安全などを願い祭事が行われてきました。
鮎川浜では、海難事故者の慰霊や鯨霊の供養をこめて「牡鹿鯨まつり」が昭和28年から続いています。コロナ禍で3年間見送られていたそのお祭りが、昨年「ホエールタウンおしか」で再開されました。市役所や観光協会、商工会とともに「鮎川まちづくり協会」も運営にあたり、町の内外から訪れた方々を大いに楽しませました。
そこには、かつて津波で大打撃を受けた浜が、すっかり活気を取り戻した光景が広がっていました。
震災復興。田中さんや山本さんのように新たに入ってきた人が、地元の方に伴走し、その土地や文化の魅力を見出すことが、大きな力になっています。
文:吉田真緒
写真:吉田真緒、鮎川まちづくり協会、石巻市
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