ローカルニッポン

万祝をめぐる人々 2 -受け継がれる万祝の技術と伝統 / 鈴木幸祐さん

江戸末期から昭和初期にかけて、大漁の祝いと本年の無事を祈る初詣にて、同じ網元(地域の漁業経営者)で働く漁師全員が羽織ったという「万祝(まいわい)」という衣装。命がけの漁を生業とする漁師の勇壮な生き様の象徴として、最近再び注目を浴びています。「万祝をめぐる人々1」では、自ら漁師の家を回り、眠っていた万祝を現代に甦らせた柳和子さんをご紹介しました。今回は、南房総鴨川でこの万祝技術を継承し、漁民芸術を今に伝える鈴木幸祐さんにお話を伺いたいと思います。

鴨川萬祝染 鈴染

鈴木幸祐さんは大正時代から続く染物屋の三代目。父である栄二さんが昭和62年に千葉県指定伝統的工芸品制作者となったことに続き、幸祐さんも平成9年に同制作者に指定され、現在は数少ない万祝の伝統工芸士として万祝の制作から補修、文化の伝承を行っています。平成18年には「鴨川萬祝染 鈴染」と改名した鈴木染物店、まずはこの歴史について聞いてみましょう。

“万祝の発祥は特定し難いながら、祖父が修行していた鴨川の「山田染工場」が安永年間(1772年~1780年)に紺屋(染物屋)として創業したことは記録に残っています。祖父は12歳頃に実家の隣にあった山田染工場で江戸時代から続く万祝染の技法を学び、大正14年に独立しました。その後、万祝風俗は30年ほど続くのですが、大戦の始まりとともに衰退し、昭和28年二代目栄二の250反の万祝制作が鴨川での最後の万祝となったそうです。”

祖父幸吉さんが修行した山田染工場

数十軒あった染物屋が次々と廃業に

祖父である鈴木幸吉さんは、生家の横にあった当時房総一の染物屋として知られた山田染工場に、明治38年12歳で弟子入りします。その頃、一か所の網元から多い時は600反もの万祝が発注されたとのことで、万祝制作の技術水準も高く、特に南房総では分業体制が進んでいました。戦争が始まると漁船が徴用され、また漁師も応召されたため、たちまち衰退してしまった万祝風俗。その後多くの染物店が廃業する中、なぜ鈴木染物店は今に技術を伝えられたのでしょうか。

“南房総では下絵から型付け、染める段階まで、細かく業務が分担されていたため万祝の質が高かったのです。ただ、万祝の注文がなくなるとこの分業化が裏目に出てしまったのですね。これに対して祖父や父は、万祝以外の染物や大漁旗、手ぬぐい染めも含め、他の仕事も受けていたので、その後も「染物屋」として存続できたのかと思います。”

祖父の作った節句幟が頭上を抜ける体験工房

祭半纏として現代版万祝を制作

幼少時から父栄二さんの仕事を手伝いつつ、傍らで絵に熱中していたという幸祐さんは高校を卒業すると上京して東京理科大学に進学、その後一時は就職も考えたといいます。

“特に家業を継ぐ決まり事はなかったので、就職活動の時期は色々と悩みました。しかし昔から絵や色が好きで、家業とは全く関係なしに大学でも有機化学という分野で染料を学んでいたので、振り返ってみてやはり私は染物屋の子なのだなと思ったわけです。特に下絵の美しい万祝には強く魅かれていましたので、万祝を現代に甦らせたい思いは、すでにその頃からあったと思います。”

将来を見越したわけでもなく、気がついた時には大学で染料にも関わる化学を専攻していたという幸祐さん。小さな頃に万祝を見た感動が、脳裏に強く残っていたのでしょうか。就職活動を止めて染物屋を継ぐことを決心するとともに、万祝制作に熱心に取り組むことになりました。

“父栄二は、最後の万祝制作以降は、色々な種類の染物をやっておりまして、万祝はあまり作っていませんでした。ただ、私は父のお陰で下絵についても素地がありましたから、これをどうにか現代に甦らせたかったのです。そこで考えたのが、南房総で盛んなお祭りの半纏衣装を万祝にしてはどうかということでした。自分の練習もかねて始めたのですが、これが意外に好評でしてね。段々と広がっていきました。”

万祝絵柄の祭半纏で祭りに参加する幸祐さん

網元から注文を受けた万祝は昭和28年が最後となりましたが、どうにかして万祝を制作したいという幸祐さんの思いは、まず自分の祭半纏を万祝にしてみようという発想に結び付きました。これを着て祭りに出ると多くの人の注目を浴び、今では万祝半纏を着て祭りを行っている地区も増えているとのこと。こうした地道な活動から再び万祝制作に脚光が当たり、様々なプロジェクトが立ち上がることになりました。

万祝半纏を着て祭りを行う地区住民

モントレー万祝の復活

2014年館山市立博物館で行われた「モントレー万祝」報告会の様子

2012年、万祝に関する大きなニュースが南房総、そして漁民芸術を愛する人々の元へ届きました。明治時代に南房総からアメリカ西海岸北カリフォルニアに渡ったアワビ漁師らが纏ったという「モントレー万祝」を復元しようというプロジェクトが動き出したのです。現地の日本人移民組織「モントレー半島日系アメリカ人会」から、2005年よりカリフォルニア州モントレーの博物館との間で交流のあった旧千葉県立安房博物館を統合した館山市立博物館に復元制作依頼があり、その制作を鈴木幸祐さんが行うことになりました。

モントレー万祝は1900年頃アワビ漁を行っていたモントレーの日系水産会社が房総の染物屋に発注し、大漁の祝儀として関係者に配ったとされる万祝で、現存2着しか確認されていない貴重な文化財。2012年から幸祐さんの手によって複製が始まり、約1年をかけて完成に至りました。100年の時を越えて、万祝が日米の文化交流に結実したのです。

モントレーが繋いだもう1つの交流

また、モントレー万祝の舞台裏では、もう1つの大きな出来事が。2012年、幸祐さんの息子である理規さんは大学4年生。就職活動も内定が決まり、時間があったので、夏にアメリカ大陸を横断しようと旅に出ます。そこで訪れたのがモントレーの日系アメリカ人会館。地下のギャラリーへ足を運ぶと、図らずも祖父栄二さんの制作した大漁旗に出会いました。

理規さんがモントレーで出会った
祖父栄二さん制作の大漁旗

“南房総とモントレーに交流があったことは知っていましたが、まさか祖父の制作した大漁旗があるとは思いもよりませんでした。祖父が手掛けた作品が国境を越えて、日本文化を伝えている。この作品をみて運命を感じました。”

この大きな体験を土産として帰国した理規さんは、就職の内定を断り、家業を継ぐ思いを父幸祐さんに伝えました。祖父の作品に旅路で出会う。この時に理規さんが受けた衝撃はいかほどのものだったのでしょうか。

万祝について説明する理規さん

今年90周年を迎えた鈴染 文化の伝承へ二人三脚

晴れて、途絶えかけた職人技を伝承する道へ進む決心をした理規さんと共に、幸祐さんは昨年万祝制作を体験する施設を仕事場の近くに建てました。コースによって時間やできあがりの作品の大きさが異なりますが、のり付けした布に刷毛筆で色づけをする、万祝染の技術を体験することができます。


「鴨川萬祝染 鈴染」。今年2015年で創業90周年を迎えますが、これからも南房総の漁師の生き様を今に伝える「万祝」を日本全国そして世界に伝え、新たな交流を実現していってほしいと思います。

文:東 洋平