1995年「モントレー万祝」の発見そして研究者同士の親睦から、太平洋戦争で中断していた南房総とモントレーの交流が再開したことを「南房総とモントレーの地域国際交流」にてご紹介しました。戦後に残った数少ない手がかりを基に戦前の記憶を復元した両国の研究者達。両地域の歴史的な繋がりには多くの人々が関わっていますが、その中でも南房総から渡米してハリウッドのトップスターになった早川雪洲、そして近代水産業の父と言われる関沢明清等に今回は焦点を当て、さらに両地域の歴史を未来に伝える人々をご紹介します。
国際アワビ交流史 ダイジェスト
19世紀後半、明治時代の幕開けと共にあらゆる産業が近代化に向けて動き出しました。水産業が盛んな南房総で受け継がれてきたアワビ漁を、米国カリフォルニア州モントレーに持ち込んだのは、安房郡根本村(現南房総市白浜町根本)で干アワビを製造する家に生まれた小谷源之助とその弟小谷仲治郎。1897年モントレー南部のポイントロボスという岬に辿り着き、アワビの漁礁を発見した彼らは、地主A.M.アレンと共にアワビ事業を開始しました。
南房総とほぼ同緯度とはいえ、寒流カリフォルニア海流が通るモントレーでは海水温が異なります。そこで小谷源之助が用いたのが、当時日本でアワビ漁に使用されたばかりの器械式潜水服。アワビ料理を米国に広めた「アワビ王」ポップ・アーネストらの出会いにも恵まれたアワビ事業は成功を収め、カリフォルニア州のアワビ市場の75%ものシェアを占めるほど繁栄します。
背後に迫りくる世界大戦の影。日露戦争以降、日本への反日感情が高まり、様々な規制がかけられました。最も困難となったのは移民制限によって南房総からアワビダイバーが送り出せなくなったことです。日米政府への要請で少人数のアワビダイバーの入国が特別に許可されたものの、1930年A.M.アレンそして源之助が亡くなると政治交渉力を失い、急速に衰退するアワビ事業。太平洋戦争が始まり、1942年日系アメリカ人が強制収容所に送られたことをもって完全に幕を閉じることとなりました。
戦後、日米研究者によって、アワビ事業がモントレーに与えた影響や日系アメリカ人の歴史が明らかになるにつれ、その功績が認められるようになりました。1988年、レーガン大統領から日系人強制収容に関して公式な謝罪がなされると、日系移民100周年となる1994年には小谷源之助、仲治郎がアワビ事業を始めたポイントロボスの居住跡地が「コダニ・ビレッジ」と命名され、現在は米国で唯一日本人の名前に由来する州立公園となっています。
戦後忘れ去られた記憶を辿って
さて、両地域の研究によって甦った華々しくも短く儚いアワビ漁師達の物語。米国での資料が戦時中に散逸したことは容易に想像できますが、南房総ではどうだったのでしょうか。南房総とモントレーの関係に詳しいNPO法人安房文化遺産フォーラム副代表鈴木政和さんにお話を伺いました。
“親戚が強制収容所に送られたと親から聞いていた私でさえ、実のところ調査するまで詳しいことは何も知らなかったんです。館山に進駐した米軍の写真をみて「ここに日系アメリカ人がいたんじゃないか」とNPO代表の愛沢さんがポロっと口にした時、ハッと親戚を思い出しました。”
同NPO愛沢伸雄代表の調査によると、米軍の関東上陸による本土侵攻作戦計画「コロネット作戦」のプランにモントレー駐屯地で入手された情報が含まれていることがわかり、アワビ事業で交流のあった日系アメリカ人が戦時中は情報源となった可能性が指摘されています。一方南房総では、スパイとして疑われるのを避けるため、モントレーとの関係を示す資料を隠し続けてきたことが鈴木さんらの地元調査でわかりました。
“戦後たった一人で、渡米したアワビ漁師の研究を始めたのが大場俊雄さんです。南房総の千倉町でアワビの養殖技術を開発していた大場さんは、独学で海外の文献を読み漁っていたところ、モントレーで活躍した「Japanese」を米国の文献から発見しました。この「日本人」とは誰なのか?海女や米国のアワビ研究者、また千倉の現地調査、その後30余年に渡る大場さんの活動が日本での研究の始まりです。”
館山市那古在住の大場俊雄さんは、仕事の傍ら『房総から広がる潜水器漁業史』や『早川雪洲 - 房総が生んだ国際俳優』を著してきた在野の研究者。NPO代表愛沢伸雄さんの一言をきっかけとして日系アメリカ人に関心を抱いた鈴木さんは、大場さんとの出会いによって見識を新たに、地道な調査と歴史を伝える活動を始めました。
アワビ交流史にまつわる数々の逸話
-早川雪洲-
“なんといっても面白いのは、千倉町出身のハリウッドスター早川雪洲はアワビダイバーである兄を追って渡米したことでしょう。この理由に関しては、座礁した貨客船に乗船して救助された米国女性に恋をしたとか、あまりに多感な性格から家を追い出されたとか(笑)色んな言い伝えがあるんですが、米国でトップスターになった後も日系アメリカ人コミュニティーとの深い交流があります。”
排日感情が高まる中でハリウッドを去り、戦後パリで絵描きをしていたところを彼のファンであったハンフリー・ボガートに請われてハリウッドへ復帰し、『戦場にかける橋』にてアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど世界的な俳優として知られる早川雪洲は、朝夷郡(安房郡)七浦村(現南房総市千倉町千田)に生まれ、1907年にアワビ漁師としてモントレーで働くことになった兄の影響から渡米しました。渡米後数カ月アワビの仕事に従事していたとも言われています。(源之助・仲治郎姪、岡田寿々枝さん証言)
-関沢明清-
“また、そもそも小谷兄弟はなぜモントレーにアワビがあることを知っていたのか?この経緯は日本近代水産業の先駆者と名高い関沢明清が関係していると考えられます。関沢明清は水産伝習所(現東京海洋大学)の初代所長でもありましてね。実は小谷仲治郎はこの学校の第三期生なんですよ。”
カリフォルニア州の日本人開拓者が大量のアワビを発見して日本政府へ専門家を要請したのは 1890 年代。これに応じて 1896 年小谷兄弟が調査に向かったのがアワビ事業の始まりですが、なぜ小谷兄弟が抜擢されたのかについては様々な説があります。
“関沢明清は水産伝習所退任以降、館山にて近代捕鯨事業を始めてるんです。第三期生でもあり、隣町の白浜で干アワビ製造の家に生まれた小谷仲治郎を知らなかったはずはありません。元農商務省の事務官も務めていた関沢は日本政府からモントレーの報告を受け、仲治郎に話を持ちかけたというのが私達 NPO の見解です。”
養殖や缶詰製造など、欧米の進んだ技術を日本に紹介し普及させるのみならず、自身も水産業雇用を生み出すために「関沢水産製造所」を館山に設立した関沢明清。今でも館山市には東京海洋大学の実習所があり関沢明清について調査が進んでいたところ、小谷仲治郎との関係がわかりました。それぞれの出来事が繋がってゆくところに研究者の意欲を沸き立たせる歴史の醍醐味があったことでしょう。
路肩の石も磨けばダイヤに
“よく「まちづくり」とは何だって話になるんですけども、私は「路傍の石」を磨くことだと思っています。どんな小さなことでもいいんです、まちの興味があることを調べたらきっと予想外の展開に巻き込まれ、キラキラ輝くダイヤに変わっていきます。そんな1人1人の経験が「良い街にしたい」想いに繋がっていくのではないでしょうか。”
1枚の写真から親戚がアメリカに渡った話を思い出し、これを調べるうちにいつしか南房総とモントレーの交流史に没頭したという鈴木さん。仕事の傍らNPOの活動や教育機関での講演を行うほか、2009年千倉町千田の別宅に「まちかどミニ博物館」を開館しました。小谷兄弟の果敢な挑戦と国を越えた地域間の100年を越える交流史が、より多くの人々の身近な暮らしの中に育まれ、地域の未来に繋がっていくことを願います。
文:東 洋平
『太平洋にかかる橋(アワビがむすぶ南房総・モントレー民間交流史)』
NPO法人安房文化遺産フォーラム発行(2005年)
『館山まるごと博物館』
NPO法人安房文化遺産フォーラム発行(2014年)
“The Japanese on the Monterey Peninsula” Tim Thomas and the Monterey Japanese American Citizens League/Arcadia Publishing(2011年)
【ローカルニッポン過去記事】
海を渡ったアワビ漁師達 1 -南房総とモントレーの地域国際交流