ローカルニッポン

全国で唯一の長期婦人保護施設が創り上げたコロニーとその未来/かにた婦人の村


千葉県館山市にある「かにた婦人の村」は、知的障害や精神障害を抱え短期的な支援では社会復帰が困難な女性を受け入れてきた、全国で唯一の長期入所型婦人保護施設。創設者である故深津文雄牧師の理念に基づき、村の暮らしを創り上げてきた職員、入所者そして全国の支援者の活動が、昨年50周年を迎えました。この取り組みと未来への展望についてご紹介します。

かにた婦人の村

村の入所者は現在69名、うち52名が敷地内にある小舎で暮らしています。入所といっても利用者は農作業、パン工場、編み物や織物、陶芸、料理、風呂掃除から切手の整理など自分ができる仕事を選んで日中を過ごします。年中イベントが多く、バザーには地域の人々が訪れ、毎月の遠足では自然豊かな館山市を散策し、職員と入所者が家族のような関係で生活を共にしているのです。

職員と入所者が家族のような関係で生活を共にしている

“創立から50年が経ちましたが、私達が何よりも大切にしてきたことは今も昔も変わらず、共に生きるコロニーです。創設者は「底点志向」という言葉を残しました。「社会の底辺」という言葉がありますが、底辺とは曖昧な言葉で、弱い者を一括りにし、人間の尊厳を失わせかねません。いかなる境遇にあっても、この世に生を受けた限り、無用な人は一人もいないのです。辺ではなく点として、共に生きる「底点志向」こそ、この創造的な50年を支えてきた原点でした。”

このように語る名誉村長天羽道子さん(89)は、故深津文雄氏とともに1965年設立以前から、様々な障害や不運な境遇にある女性を受け入れる長期的な保護施設の実現に向けて尽力した人々の一人。まずは天羽さんにかにた婦人の村誕生について聞いてみましょう。

かにた婦人の村名誉村長天羽道子さん(左)と現施設長五十嵐逸美さん(右)

かにた婦人の村名誉村長天羽道子さん(左)
と現施設長五十嵐逸美さん(右)

人身売買、売春が横行した戦前戦中の日本

“戦前日本には人身売買や売春を規制する法律がなかったため、貧しい家の親が娘を売ったり、売春を商売にする例が後を絶たず、戦中はより一層の悲劇も起こりました。戦後ようやく「売春防止法」が制定されたものの、当時日本全体が敗戦の中で貧しく、どの家族も生きることに必死です。他人の世話などしている余裕もなく、身も心もボロボロになった女性達は行き場を失っていました。”

1982年に完成した納骨室付き会堂 地下に引き取り手のない入所者の遺骨とともに深津文雄氏の遺骨が納骨されている

1982年に完成した納骨室付き会堂 地下に引き取り手のない入所者の遺骨とともに深津文雄氏の遺骨が納骨されている

日本の人身売買や売春を規制する法律は「芸娼妓解放令」(1872年)に遡りますが、内容の不備を訴える人々の活動が実を結び、実質的な効力をもったのは戦後1956年「売春防止法」。この法令の4章「保護更生」に婦人保護事業が位置づけられたことから全国に婦人保護施設が開設されることになりました。

長期的に安心して暮らせるコロニーの必要性

“この時に立ちあがったのが、深津牧師です。戦後教会の牧師館に生活困窮者が次々と訪れる中、深津牧師はすでに「コロニー」の必要性を考えていました。売春防止法成立の2年後、東京都の委託で婦人保護施設「いずみ寮」を開設すると、入所者の多くが知的、あるいは精神的に障害があり売春せざるを得ない状況にあったこと、そして短期の支援で社会復帰することが難しいことが判明します。そこで、深津牧師はこのような弱い女性達が長期にわたって安心して暮らすことのできる「コロニー」について、入所者と共に具体的に語り始めました。”

旧約学の研究者でもあった深津文雄牧師

旧約学の研究者でもあった深津文雄牧師

“いずみ寮開設の2か月後、キリスト教婦人矯風会久布白落実氏が訪れ、コロニーの訴えを聞いた後、「何事も人頼みにできるものではない。そう思ったら、今日、自分で始めなさい。足元の第一歩から…」とその場で財布にあった52円をコロニー建設の種として差し出されました。”

“久布白氏がまかれた種は、コロニー後援会の発足、そしていずみ寮の入所者や全国の支援者を中心とした国への陳情活動などに繋がり、1962年ついにコロニー建設予算が国会の審議を通過します。こうして1965年4月1日に、婦人保護長期収容施設(現在は婦人保護長期入所施設)としてかにた婦人の村がスタートするのです。”

コロニーの建設を訴えるいずみ寮入所者と支援者

コロニーの建設を訴えるいずみ寮入所者と
支援者

1970年に撮影されたかにた婦人の村集合写真

1970年に撮影されたかにた婦人の村集合写真

戦後40年を経た告白

千葉県館山市の旧海軍砲台跡地に旧厚生省直轄の施設として1965年に開設されたかにた婦人の村は、設立1年目から87名が全国より入所し、入所者と職員が共に暮らしや仕事を築き上げる創造的な日々がスタートしました。編物作業棟、製陶作業棟、畜舎そして農耕作業棟など次々と施設が建設され、年を重ねるごとにコロニーが充実していきます。そんなある日、入所者である故城田すず子さん(仮名)が、深津牧師に手紙で思いを告白する出来事がありました。

収穫した農作物で料理を共にする入所者

収穫した農作物で料理を共にする入所者

“城田さんは、いずみ寮に入所後まもなく脊髄骨折により6年間闘病し、車いすの状態でかにた婦人の村に入所した方です。城田さんは、1971年に、自身が親に売られた売春婦であったこと、戦時中は海軍の御用達の慰安施設で性の提供をしていたこと、戦後婦人保護施設に繋がり、クリスチャンとなって救われたことなどを「マリアの賛歌」という本にまとめ、出版していました。そして翌年に戦後40年を迎えようとしていた1984年に、「従軍慰安婦」として地獄のような日々を強いられ死んでいった同僚達を弔いたいという、長年心の奥底にあった思いを創設者に告白したのでした。”

裂織機で古い着物を新たな生地に織り上げる

裂織機で古い着物を新たな生地に織り上げる

噫 従軍慰安婦

“深津牧師は1年考えた末、戦後40年の1985年8月15日に「2度と繰り返してはならない事実の記憶」として、施設敷地内の山頂に「鎮魂」と墨書した柱を立てました。この柱は多くの方々の善意によって次の年に「噫 従軍慰安婦」と刻まれた石碑となりました。この鎮魂碑に込められた思いが1人でも多くの人に伝わり、戦争という過ちを再び引き起こさないこと、そして女性の尊厳が守られ、すべての人間が活き活きと生きる社会が実現することを祈ります。”

「噫 従軍慰安婦」と刻まれた石碑

戦時中至る所に設置されていたという慰安所、そして研究者により推計は異なるものの、少なくとも数万人以上に及ぶとされる日本軍「慰安婦」ですが、あまりにも悲痛な体験と様々な思いから、戦後自身が慰安婦であったことを肉声で公にした日本人女性は城田さんただ一人。また日本人女性だけでなく、東アジアや東南アジアの女性が意思に反して慰安婦として働かされた多くの事例も、様々な歴史的資料で明らかにされています。「鎮魂碑」の建立以来、毎年終戦記念日には、かにた婦人の村の職員、入所者たちが、この石碑の下で花と歌を捧げ、このような過ちを二度と起こさないことを、犠牲となった方々に誓っています。

次の50年に向けて

かにた婦人の村で生まれた美しい作品の数々

かにた婦人の村で生まれた美しい作品の数々

こうして50年の歳月を入所者と職員が共に手を取り合って一つ一つの課題を乗り越えてきたかにた婦人の村ですが、創設時に掲げてきた理念を引き継ぎつつ、新しい試みも始まっています。最後に現施設長五十嵐逸美さんに、未来への展望をお聞きしました。

“1997年以降の社会福祉基礎構造改革の流れの中で、社会福祉に対する施策や考え方が大きく変わり、障害を個性として受け入れ、社会的障壁の除去を目指す環境づくりや地域づくりが求められるようになってきました。かにたが目指してきた互いをありのままに認め合うコロニーは、今や成熟した社会に求められる課題となったのです。障害者グループホームなど、地域における社会資源の充実により、近年、かにた婦人の村に入所された方が、それらの資源を活用して地域生活に移行するケースが見られるようになりました。「終の棲家」から「新しい自分を見つけて、力をつける場」に、社会から求められる施設の機能が変わりつつあります。”

毎日30箱以上もの寄付物品が全国から集まる「かにた作業所エマオ」

毎日30箱以上もの寄付物品が全国から集まる「かにた作業所エマオ」

かにた婦人の村は、以前から「人を生かし、物を活かす」ことをスローガンに衣料品を始め様々な不用品のリサイクル活動を、入所者の日中活動として続けてきました。毎日30箱以上もの寄付物品が全国から集まり、地域の人々に向けて構内で開催されるバザーのために、季節や品目ごとに仕訳けたり、値段をつけたり、商品としてラッピングする作業が必要です。2014年の6月、これらの作業を障害者総合支援法の就労継続支援B型事業に移し「かにた作業所エマオ」を婦人の村に隣接して開設しました。リサイクル活動を地域の障害者の方々とシェアすることにより、村が育んできたお互いを尊重する文化や精神が、地域に根付き、誰もが安心して暮らせる地域づくりにつながっていくことを願います。

文:東 洋平