ローカルニッポン

会津(越後)街道探索ウォーク/いにしえの道の先に見えるものは

「会津」と聴いて何をイメージされるだろうか。

きっと戊辰戦争や白虎隊といった言葉に代表されるように、明治新政府に完膚なきまでに打ちのめされたという悲劇を持ちながらも義を貫いた場所という印象を持たれる方が多いと思う。私自身もそうだった。

でも、こちらに移住して強く感じたのが、五大仏都の一つと呼ばれるように仏教のみならず信仰文化が民衆に溶け込む形で有形、無形に残っていること。

この地方独自の暮らし、風習、習慣、祭りといった文化が色濃く残っていること。

自然の豊かさと、その恵みから生まれた米に代表される農林作物の豊かさ。

更には酒、醤油、民芸品などのものづくりの伝統的工法が脈々と継がれていること。

「この自然、地形、気候と歴史がゆえにこの生活、文化があるのだな」という実感。それこそが地方の資源であり、後世にも伝えるべきものの基盤だと思うようになった。

そこで今回、全国的には決してメジャーでない『会津街道』からその歴史と文化を掘り下げ、地道に内部・外部との交流を図る取り組みを追ってみたいと思う。

会津街道とは?

「会津(越後)街道は会津五街道のひとつ、会津若松と新発田を結ぶ街道です。

なるべく旧道に忠実に、道中の文化財を訪ねながら、一泊二日の五回シリーズで23里(約92㎞)+αの道のりを新発田城から鶴ヶ城まで歩きます。」

ツアーを主催するのは『にしあいづ観光交流協会』。

西会津町は福島県の西端、新潟県に接する場に位置し、2014年春に観光窓口の一元化、柔軟でスピーディーな対応、観光に関するノウハウや人脈の蓄積といった観光推進体制の強化を目的に、町内の3団体を統合して協会が設立された。

担当のスタッフは堀口一彦さん。個人的にも4年来の付き合いがある方だ。

東京都出身だが、魚類研究を専門にしてその生態調査、水産施設開発設計等を経て、ベネズエラへ養殖技術支援を目的に青年海外協力隊として赴任。その後平成20年に福島県喜多方市に移住。2015年度より西会津町に招聘され、会津地方の自然や歴史を楽しむ各種イベントの企画・運営等を実施されている。

まずは本街道ツアーにおける協会の役割と目的のポイントを伺った。

地元の内発性の引き出し

具体的に説明していこう。

会津街道は観光対象としてはまだまだ未整備でこれからといった状態だ。だが、自治体の予算と人員にどこでも限りある中、どう準備をして発信するかというところが腕と熱意の見せ所となる。

<道普請の一コマ。背丈を超える草刈もいにしえの道を復活させるという思いが支える>

『道普請(みちぶしん)』は一つの鍵である。

聴き慣れない方のため補足させてもらうと、草刈りはじめ道を整備するための共同作業のこと。ここでは街道整備のことを『僕らの手でいにしえの道を復活させよう!プロジェクト』と名付けられ、沿道集落の方々の支援と協力を仰いでいる。今年だけで計12回に及び、私も10回目に参加させてもらったが、日中通しての作業は結構の重労働である。ここにツアー関係者のみならず沿道の方々に参加してもらうことに意義がある。

これは街道の解説を沿道の集落の方々にお願いすることとも共通する。

ツアーの成否を決める重要な要素の一つであるガイドを文献調査のみに頼ってはどうしても限界がある。現地の生活感と密着した解説を聴くことにより、「なるほど、そうだったのか」と実感が湧くのであり、それを委託できる先は沿道に住まれる方以外にない。

そこで生活と文化を受け継ぐ彼らこそが宝であるということ。それは当たり前のように思うが、外部との接点がなければそれを認識してもらうのは意外に難しい。だからこそその導線としてツアーへの協力、参加への呼び掛けがある。

外来の客がわざわざ見に来てくれるなら、と協力関係と参加意識が生まれると、実際に来客してくれることへの喜び、プライドが生まれ、「じゃあ今度は」と更なる循環を生んでいく。その内発的な動機を生むきっかけ作りこそが重要なのである。

<道中でツアーのガイドを担う田崎敬修先生。西会津町で会津街道の復活を支える中心人物である>

街道は過去のみでなく未来への付箋

ツアーには第4回目に参加させてもらった。

参加する前は移住者でありながら相応に歴史や文化に興味あると勝手に自負していたが、ガイドの方々の歴史文化への造詣の深さ、説明には感嘆するばかり。自らの不勉強さを恥じるばかりだった。

そして史実のみならず伝説を交えての解説は好奇心を倍増させてくれた。

例えば、兜石周辺の部落における山賊の話。

旅の僧に略奪を試みた山賊がかえって屈服させられ、それとともに今までの生活を改心し、農法を教わって地道に生きていく話だが、かつての村の生活のあり様と宗教の役割が想像されてとても興味深かった。それこそ現地を歩いて見聞きすることの醍醐味だ。

参加者は、新潟県12名、東京都3名、福島県11名、千葉県2名、埼玉県1名、神奈川県1名、石川県1名の計31名。加えて隣の新潟県阿賀町のスタッフ3名、西会津町スタッフ、ガイド講師の方が加わり、交流会の席では夜深くまで話題が尽きなかった。

<夜の交流会の席は参加者間とスタッフの交流を図る絶好の機会だ>

また、この街道ツアーは参加者と地元との交流のみならず、関係者間において県境を越えた交流が盛んになる契機となっている。その象徴が昨年11月29日に開催された『会津(越後)街道サミット』だろう。

中山間地域の活性化につながる地域資源の掘り起し、関係者の連携強化などを目的に企画されたもので、堀口さん司会の下、七名の代表者のお話しに県内外より150名を超える参加者さんの熱気が渦巻いたという。古くから密接な関係のあった会津と越後、その関係を見直すための素晴らしい企画といえるだろう。

今後一層の人口減少と高齢化により財政が逼迫する日本において、全ての市町村が単独でフルセットのサービス機能を維持することは難しい。それをどう解決するかは民間含めての差し迫った課題であるが、かつての合併とは異なる広域連携はその有効策の一つとして各地で議論されている。その意味でこの『会津街道探索ウォーク』により生まれた交流は都道府県を越えた広域連携のトリガーになるかもしれない。盛り上がりの火を消さないため、第二回サミットは新潟県阿賀町で開催されることが決定しているという。

<第一回会津(越後)街道サミット 2015年11月29日 西会津中学校多目的ホールにて>

堀口さんは「僕は何の能力もない凡庸な人間にすぎませんよ。」と言われる。

でも、彼は趣味として世界各地の未開の地を探索してきただけでなく、国内の100kmマラソンに始まり、東海道を東京から京都まで、北海道を襟裳岬から宗谷岬まで、更にはギリシャのスパルタスロン(250km)、そして極めつけはランアクロスアメリカ(ロス~ニューヨーク5000km71日間)を完走するという異色の経歴を持たれている。

極限状況にもかかわらずゴールまで途切れずに完走することの大切さ。それを達成するための仲間の協力。その思いが沿道に住む方々との関係を大切にして、ある区画とポイントをピックアップするのでなく、街道を必ず線として繋げて歩き通すことにこだわりを持たれることの原動力になっているのだろう。

<ツアーを担当する堀口一彦さん(左)が、会津坂下町歴史の第一人者・古川利意さん(右)を紹介する。束松峠にて>

「この街道探索ウォーク一本だけでは集客は限られています。例えば、ある地点をピックアップして詳しく解説する編とか、街道トレイルランとか色々なバージョンを加えることを画策中なのです。」

「僕の役割は仕組みを投げ掛けること。それを利用して各地区の方々が自分たちで企画して運営してもらえるようになることが目的なのですよ。」

「これは個人的な願望ですが、しっかり旧道を同定、整備し、沿道の歴史を記録していく同志を全国的に探していきたいと思っています。」

そもそもヒト、モノ、カネだけでなく文化の繋がりを作るのが『道』の役割である。それを更に過去から未来へ繋げることこそが街道を見直すことの役割であり、未来への付箋に繋がるのだろう。

文:阪下昭二郎