1976年に大ヒットした『山口さんちのツトム君』を皮切りに、数え切れないほどの編曲、作曲、レコーディングを手掛け、名実ともに日本を代表する音楽家・ギタリストの千代正行さん。現在でも大河ドラマや映画、ジブリ、CMなどで多くの人が千代さんの弾くギターを耳にしています。そんな千代さんが2010年に移住した先は、南房総で唯一郡の名を残す人口1万人弱の千葉県安房郡鋸南町(きょなんまち)。移住するに至った経緯や「保田スタジオ」で奏でる音についてお話を聞きしました。
鋸山を超えて感じた「気」
鋸南町の保田(ほた)にある千代さんの拠点は、民家を改修したスタジオと小屋を修築した住居、そして自家菜園で構成された、鋸山をバックに海に吹き抜ける風通りのよいスペース。どのようにしてこの場所と出会ったのでしょうか。
“50歳を迎える頃に、地方への移住を考えるようになりました。特に那須高原は、新幹線で東京から1時間と注目されており、私も気になっていたのです。そこで那須の黒磯にてコンサートがあった晩、地域の移住者の方々に話を聞くと「時間距離は近くとも東京から200キロ。心細くなって戻ってしまうケースも多い」という助言を受けました。そしてその中の一人から紹介を受けた地が「保田」だったんです。東京から80キロの地に、理想的な環境があると。”
“偶然次の日が休みだったので、早速保田まで行ってみることにしました。車でアクアラインを超えて房総を南下します。実は南房総を訪れるのはその時が初めてだったんですね。鋸山のトンネルをくぐった瞬間に、良い「気」に包まれたことを感じました。私が求めていた癒し、飾り気のなさ、人と人の温かさを直感しました。そこで、その日のうちに不動産屋へ寄って、空き家を探していることを伝えましてね。数週間後見つかったのが今の「保田スタ」の物件です。”
保田スタジオの誕生
千代さんが30年以上過ごした世田谷を離れ、千葉県鋸南町に移住したことを知ると多くの第一線で活躍する音楽家やエンジニアが訪れ、「保田スタジオ」への改修が進んでいきました。
“レコーディングにとって一番大切なことは、機器類に供給される電気の質ですが、仲間のエンジニアが電源トランスやアンプを整備してくれて、都内の一流スタジオと変わらない音が創れるようになりました。その他の機器もほとんど友人の持ち寄り(笑)。東京を離れたら仕事はどうなるか?クオリティが落ちるのでは?と考える方もいますが、もはや今の時代、データでのやりとりがスタンダードです。外観は田舎の民家ですが、むしろこのスタイルが最先端?(笑)なんて思っています。”
“特にボーカルの方々には喜んで頂いていますね。都内で相応のレコーディングスタジオを借りると時間当たりですごい費用がかかります。そのため、なるべく早く良いテイクを出せるように頑張るんですが、身体自体が楽器となるボーカルは、この緊張感なども音に現れやすいのです。「保田スタ」だと時間を気にせずゆっくり録音できることや、外に出ると海や山の自然でリラックスできることからリピートする方が増えています。”
独学で追及したギター、自力で切り拓いた音楽家への道
そんな千代さんが初めてギターを手にしたのは小学校5年生の時。お兄さんに誘われて地域のお祭りに出演した体験からギターにのめり込み、音楽の授業で学んだ知識で理論を深め、高校生の頃には校歌をアレンジして譜面を書き下ろしていたといいます。
“茨城県の牛久という田舎で生まれましてね。父は化学の専門家で、特に音楽をやる親戚もなく、家も裕福ではなかったので、ギターも音楽理論も全くの独学でした。高校を卒業したら音楽家になりたいと夢はあったのですが、どうしたらよいかわかりません。そこで、東京の中心街にある大学に行こうと決心したのが高3の12月。芸能関係者が多い街に行けばなんとかなると思ったんです(笑)。必死で勉強して奇跡的に青山学院大学に合格しました。”
“しかし結局大学に通ったのは合計4、5回だったと思います。その他は六本木の居酒屋で働き、夜のバーでギターを弾き続ける日々でした。今では信じられない話かもしれませんが、当時実際に夜のお店で音楽業界の人とつながるチャンスがあったんですね。念願かなってレコード会社のディレクターの方から声がかかり、とあるレコーディングに参加することになりました。ちょうど大学も自主退学した20歳のことでした(笑)。”
人や文化がもつオリジナリティを尊重すること
その後23歳で編曲した『山口さんちのツトム君』が150万枚のレコード販売数を記録し、一躍業界に名を轟かせた千代さんのもとには引く手あまたの依頼が届きました。しかし千代さんは意外な決断をすることに。
“有難いことに仕事が増えて音楽家として出発することができたのですが、その時の自分に満足することができず、25歳の時に50万円片手に単身で渡米したんです。ギターの本場で修業をしようと思い立ちました。しかし、期待を胸に飛び込んだ先では、ことごとく挫折感を味わうことになりました。特に黒人ミュージシャンのテンポの取り方、メロディは衝撃でした。学ぶどころではなく、決して真似できないという無力な自分と遭遇したのです。”
“この経験は同時にオリジナリティとは何か考えさせられるきっかけとなりました。私には私の、日本人には日本人にしか出せないリズムやメロディがある。一年間の挫折から帰国する頃には、こうした音楽観が自分の中に芽生えていました。今でも世界中の弦楽器を弾いていますが、クラシック、ジャズ、ボサノバなど、それぞれの音楽の中に、どれだけ私自身、そして日本人の感性を注ぎ込むことができるかという観点で演奏しています。”
50歳に見据えてきたゼロからのスタート
日本に帰ってからは、米国で気づいたオリジナリティに磨きをかけながら毎日何本ものレコーディングセッションをこなしてきた千代さん。40代前後の時には、テレビをつけるとCMやドラマの7、8割が千代さんの参加した曲だったこともあるそうです。
“今振り返ると、コンプレックスの塊だったように思います。何とか音楽家になるも、周りを見渡せば、音大、芸大出身のエリートばかり。彼らに負けじと知らぬ間に片意地をはって頑張ってきたんですね。今では慕ってくれる後輩も増えて、コンプレックスは次第に消えていきましたが、その一方で何の虚飾もない本来の自分に立ち返って、改めて音楽と向き合ってみたいという気持ちも湧きました。”
“そこで50歳になったら、一度人生をゼロにして、再スタートしようと思ったんです。どうしても東京にいると「こう弾いたら喜ばれるかな?」という誰かのためという視点でアレンジし、演奏することが多く、経歴や肩書にぶら下がっているように見えた自分にも違和感がありました。東京を離れ、自然体から生み出されるオリジナリティを音に表現したい。そんな音楽の場を創りたい。保田と出会ったのは、そんな背景があってのことだったんです。”
田舎にある昔ながらの良さを大切に
保田スタジオの建設と同時進行で、スタジオの前にあった小屋を購入した千代さんは、地元の大工とともに自身の住まいでもあるカフェスペースを修築しました。地域の人々との談話は千代さんにとって大切なひと時。
“ここでの暮らしは、毎日気絶するほど最高です(笑)。昔の日本にあったような豊かなコミュニティが今も残っていて、人と人が壁を作らずに生活しています。都会は不思議なもので、本当は人との接触を望んでいるのに、プライベートを守ろうと躍起になっている。もっと自分を解放すれば、自然と楽しさや元気が湧き起こってくるものです。もちろんこの地域も人口が減って数々の課題がありますが、私にできることは積極的に関りながら、田舎にある良さを失わないように見守っていくことだと思います。”
「保田スタジオ」という地名に因んだ名前にみられる通り、多くの音楽家や芸術家が集まる拠点だからこそ、少しでもこの地を広めたいという千代さんの思いが現れています。2013年には『Hamabe』というアルバムで、全国に残る童謡をアレンジしたソロ作品を発表。現在、このプロジェクトの一環で子守唄をアレンジ中とのこと。これからも、自然体であることを追求してゼロから生み出される千代さんの音が全国に響き渡り、人々の癒しとなっていくことでしょう。
文:東 洋平
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