農業は力仕事なので女性には不向きと思われている方も多いのではないでしょうか。しかし近年、生活者、消費者という視点から女性目線での農業に注目が集まっており、女性就農者のアイディアと企業や団体との様々なコラボレーションも実現しています。今回ご紹介するのは、千葉県南房総市の岩井海岸近くでタイ野菜やイタリア野菜を栽培期間中農薬不使用で育てる足達智子さん。都内で働いていた足達さんが、家業を継いで新しく始めた農業とその思いについてお話を伺いました。
都会暮らしに終止符を打ち、先祖代々の土地を守る
ひと昔前に内房の漁師町として栄えた風情ある町並みを抜けて、富山(とみさん)の景色に溶け込む畑が大紺屋(おおごや)農園。足達さんの実家が長年営んできた民宿「大紺屋」から名付けられています。
“「大紺屋」という屋号にあるように古くは「紺屋(こんや)」、つまり藍染の染物屋をやっていた時期もあったそうです。家に伝わる南房総ならではの歴史を幼い頃から聞いて育ったので、一人っ子ということに少なからず責任は感じていましたね。かといって祖父母も両親も「お墓を守ってくれさえすれば」といった考えでいてくれたので進路は自由に選択して都内に出ました。”
“そんな中祖父母が民宿と兼業農家をリタイアすることになり、若い担い手も少ない地域で人手が必要な民宿の継続は諦めることに。ただ、祖父母が代々守ってきた農地だけは絶やしたくない、という思いで帰郷を決めて就農しました。農地を引き継いでからは、イタリア野菜や日本の野菜、夏限定でタイ野菜を栽培しています。すべて農薬を使わずに育てているので最初はどうなることかと思いましたが、お客様の喜ばれる声に支えられて、3年目を迎えることができました。”
料理好きから調理師免許を取得 旅先で出会った独特の野菜たち
幼少期から農園で手伝いをしていたとはいえ、就農当初からイタリア野菜やタイ野菜といった珍しい野菜を栽培する発想は足達さん独自のもの。そこには、都内進学後の様々な出来事や経験が関わっていました。
“料理が好きだったので、大学卒業後に専門学校に通い調理師免許を取得しました。その後は特にやりたい職種もなく金融関係の一般企業に就職し、朝から夜遅くまで仕事中心のハードな日々が続きます。今のような農業をやることになった直接のきっかけは、友人に誘われてタイに旅行に行ったことです。バックパックでピピ島はじめ様々な場所を巡り、すっかり旅行にハマってしまいました(笑)。”
“一つ目の会社を4年半ほどで退職すると日本語教師のライセンスをとり、英会話を実践しに4か月間フィリピンに滞在することもありました。帰国後不動産関係の会社で新たに働きますが、休日をまとめては旅行に出ていましたね。その時々に海外の個性溢れる野菜と出会い、こうした野菜を日本で新鮮なまま料理できたらなぁと思っていました。この頃からいつか実家に帰って海外の野菜を育てたいという夢が芽生えていたと思います。”
安全な食に対する大紺屋農園のポリシーとは
タイやイタリア産の野菜を種から育てていること以外に、大紺屋農園の特徴として農薬を使わずに栽培していることが挙げられます。除草剤や殺虫剤を使わないにも関わらず、美しく手入れされた農園には足達さんのポリシーが反映されています。
“都内に出て驚いたことの一つが、デパ地下やスーパーで販売されている野菜の日持ちの悪いことです。夜遅く家に帰って料理をしようと思うと冷蔵庫の野菜が傷んでいる、なんてことがよくありました。収穫から2、3日経っているとはいえ買った時の見栄えの良さは、かえってどのように栽培しているのか不安になりました。その当時よりは表示義務やトレーサビリティは高まってはいますが、食の安全とはどういうことか、都内で暮らしている時によく考えたものでした。”
“大紺屋農園では、農園の見学を歓迎しています。安全性には認証などの方法もありますが、大量生産ではない農業では作り手や農園と直接つながることが最もシンプルな信頼の形ではないかと思うんです。そのため、レストランのシェフや消費者の方にもできる限り農園を見学していただくようにお願いしています。除草も虫取りもすべて手作業なので手間はかかりますが、お客様から野菜が「活き活きしている」「味が濃い」などとの声も頂戴して、野菜本来の力を引き出す栽培方法をこれからも追及していきたいと思います。”
料理の現場から加工品のアイディアを具体化する
そして、大紺屋農園が足達智子さんの代に受け継がれて早くも着手したのが加工品の製造と販売。生産者が加工から販売まで行うため1次と2次、3次産業の掛け合わせから6次産業と呼ばれている農業の形態です。
“折角手塩にかけて育てた野菜が売れ残ってしまったり、形が悪くて販売できなかったりして、廃棄となることがとても残念で。よくいう日本人の「もったいない精神」といいますか(笑)。そこで就農したばかりですぐに加工品製造を始めました。タイの激辛唐辛子プリッキーヌスワンを使ったタバスコ風の調味料や、栄養価たっぷりのイタリア野菜カーボロネロや生姜をじっくり乾燥させたパウダー、ホーリーバジルティーなどご提供中です。”
“加工品は、料理をしていて自分が使ってみたいなぁというアイディアから少しずつ実験を重ねてきました。カーボロネロもケーキのスポンジに混ぜると深い緑となり、西洋野菜の赤ビーツも皮をむいてマヨネーズと混ぜ合わせればピンクのサラダに。野菜って彩りが美しいですよね。最近では、防腐剤を使わないドライトマトに挑戦しています。塩加減などこれから研究の余地もありますが、そのまま食べても栄養のあるおやつとして楽しんでいただけたらと思います。”
3年のスタートアップを経て安定した成長を目指す次なるステップ
こうして生産から加工品製造まで手掛けて3年目を迎えた大紺屋農園には、南房総の道の駅ハイウェイオアシス富楽里やネット経由の問い合わせが増えおり、次なるステップに踏み出そうと検討中です。
“就農して間もなく知り合った方のご紹介で農林水産省の「農業女子プロジェクト」に参加すると各地域で活躍する女性就農者や企業の方と知り合うことができて感謝しています。旬の露地栽培にこだわっているため、通年で提供はできませんが、大紺屋農園のコンセプトを理解してくださるレストランや量販店との契約栽培のお話もいただけるようになり、支えてくださった人や恵まれた環境に恩返しできるように着実に成長していきたいです。”
“最近では日が暮れるまでは農園で作業、帰ってから夜遅くまで加工品作りと寝る暇もなく仕事をすることが多くなってきたこともあり一緒に働いてくださる従業員の方を探しています。そして早い段階で農業法人を立ち上げて、徐々に経営を安定化させられたらよいですね。一度都会へ出て故郷へ戻る人は少ないですが、外に出たからこそわかる故郷の良さがあります。もし私が地元を離れなかったらタイやイタリア野菜という発想は決して生まれなかったでしょう。大紺屋農園が一つの例となって、Uターンする人や女性で農業を志す人の後押しになれたらと願っています。”
調理師免許をもった生産者である足達さんのもとへは料理教室の依頼もあり、野菜の生育過程や生の味を知り尽くした生産者の立場から足達さんが作るレシピや加工品に注目が集まっています。タイやイタリア産という野菜の珍しさだけでなく、農薬を使わないことや露地栽培であること、野菜の栄養素を損なわない加工の仕方など、商品に多くの訴求ポイントがあることも、都会での仕事や暮らしを経験した足達さんだからこそ創り上げる新しい農業。地域農業のロールモデルとしてさらに発展していくことをこれからも応援していきたいと思います。
文:東 洋平