ローカルニッポン

73歳から始めるローカル出版 熟練写真家が未来に残すローカルの今とは/新井克英さん

千葉県南房総に移住した57組の人々を取材した『辿りの道』という本が、今年9月から地域の書店や道の駅に並びました。著者は、千葉県館山市への移住歴13年で、家のセルフリノベーションや田舎暮らしの先駆けともいえる御年73歳の写真家新井克英さん。カタログ制作や写真撮影を生業とする新井さんが、なぜ今移住者の話をまとめたのでしょうか。新井さんのお話から、ローカル出版やローカルメディアの可能性について考えてみたいと思います。

東日本大震災をきっかけに動き出した移住者の記録『辿りの道』

地方への移住がひと昔前に比べて珍しいものではなくなり、移住者の体験談がまとまった記事や刊行物が増えてきました。しかし、今回新井さんが編纂した『辿りの道』は、記録や報道の側面が強いフォト・ルポルタージュと呼ばれるもの。取材対象者の移住前後に起きた出来事や心境の変化が、独特の写真とともに語られています。

118ページにわたり移住者57組を紹介する『辿りの道』 南房総の移住促進を担うNPO法人理事長へのインタビューも掲載している

“当初この本を出版する目的は、この地に住む人が東日本大震災をどう受け止めたのか記録することにありました。特に原発事故は、明確な根拠のあるマスコミの報道、学者の見解が得られないままに日本全体が混乱に陥り、放射能の脅威から関西へ移住した南房総住民も多くいました。その一方、震災を境に南房総に移住した人々も多く、この傾向は今もなお続いています。移住者に話を伺うことで、震災と原発事故がもたらした変化を一般生活者の視点で記録することができないかと考えたのです。”

撮影から執筆、印刷データの制作まで全て一人で行った

“しかし、その思いは良い意味で裏切られました。それぞれの方の道のりに3.11は決して小さくはない影響を及ぼしているものの、移住の経緯や目的は、想像をはるかに超えて複雑で充実した内容に溢れていました。いかに南房総という土地柄が多様な価値観の受け皿となっているか、ということだと思います。移住というと、成功体験が取り上げられる傾向がありますが、脚色や美化をなるべく排除した記録としてまとめました。この本が南房総や移住を考えるヒントになれば幸いです。”

震災後に咲き続けた福島の桜を追って

新井さんは商品のカタログや企業のパンフレット制作、写真撮影などを生業としていますが、『辿りの道』と、それに先立って発表した写真集『福島桜狩り』は、商業的手法とは異なる独自のコンセプトで作られています。なぜこうした作品を自費出版しようと思い至ったのでしょうか。

2012年から2016年の春に福島で撮影した桜の写真集『福島桜狩り』 全ての写真に放射能線量値を付記している

“東京の本郷に事務所を構えていた時から震災まで、約30年にわたって福島から岩手の海沿いにある様々な企業から仕事を請け負っていました。『森は海の恋人』で知られる畠山重篤さんの牡蠣養殖場のカタログ受注では、海が山や川とどれだけ深く連鎖しているかを学ばせてもらったこともあります。また個人的な釣り好きが高じていずれイワナの養殖をやろうと福島の山間部に土地を求めたことも。そんな思い入れの強い岩手、宮城、福島で起きた震災、そして原発事故でした。”

“震災直後、被害は甚大でしたが、その頃は早い時期に復興に向かうと考えていました。しかし、原発事故で事態は一変します。放射能で汚染されていく海や川、大地。恐怖と悔しさが募るなか、2012年に福島を訪れた時のことです。そこには、梅と桜が咲き乱れ、夕霧が立ち込める光景が広がっていました。福島の桜は地元の方による植林が多いのです。放射能への不安と桜の美しさ、また桜が想起させる死生観が同時に襲いかかってくるような景色でした。この時から、福島の桜を撮り続けたことが一連の始まりです。”

福島県広野町(2016年)

エコハウスを自ら建てて始まった田舎暮らし

一時は岩手県の陸前髙田市や福島県の山の中に移住を検討していた新井さんですが、地主や後継者と折り合いがつかず2004年に辿り着いたのは千葉県南房総市丸山町。ここで新井さんは大工に手伝ってもらいながらハーフビルドでエコハウスを建てました。

新井さんが南房総市丸山町に3年の歳月をかけて建てたウッディハウス外観

“私が地方へ移住を考えたきっかけは他でもない身体の異変でした。移住する数年前に胃潰瘍になり、その次はシックハウス症候群なるものにかかりましてね。数年土地を探しても東北では見つからず、ログハウスを建てるワークショップを主催する会社の紹介で、南房総の土地と出会いました。そこで自分の身体にも環境にも優しいエコハウスを建てようとDIYを始めたらハマってしまって(笑)。この家はとても気に入っていましたし、DIYな仲間もできました。”

構造材には釘を一切使わず、地元の杉材を利用した

“しかし、今度は家の湿気が原因でカメラなど仕事用の機材がやられてしまったのです。これでは仕事ができないと家を売りに出したら、ちょうどその頃取材を受けたDIYの専門誌に家が載って、予想以上に早く売れてしまったわけです(笑)。大慌てでまた家を探すことになりました。辛くも見つかった館山市の家はシロアリで床下がボロボロ。契約破棄、瑕疵(かし)の問題など全く知識がなく、知った時には後の祭りということで、悔しいので宅建を取りましたよ。お陰様で家のことは詳しくなりましたし、田舎暮らしも十分堪能したのではと思います。”

移住者への取材を通じて「ローカル」の意味が変わった

趣味の釣りやDIYで家のリノベーションを行うなど、田舎暮らしを満喫していた最中起きたのが2011年東日本大震災でした。地方での暮らしも7年目に入っていた新井さんにとって震災と原発事故、そしてその衝撃から始めた福島の桜の撮影と移住者の取材は、「ローカル」という概念を再定義することになりました。


“私にとってローカルとは、身体を癒し、仕事をしながらでも余生を楽しむ場でした。正直なところ65歳ぐらいの時にはもういつ死んでもいいなと思っていたほどです。しかし、この震災を機に孫の代の日本に思いを馳せるようになりました。私が死んだ後の世の中はどうなっていくのか。その逆に20年、30年後から現在をルックバックした時、原発事故を抱えながらこの地域ではどんな生活をしていたのか記録として残そうと。少しずつ移住者の話を聞くにつれ、それまで全く知らなかった「ローカル」が見えてきました。”

“取材では、自然と共生した暮らしを育む多くの人々と出会いました。そして人口や資源が枯渇し、高齢化が進む地方で、新しい未来を創ろうとする数々の挑戦を知りました。驚いたことに、多くの方が海外や国内での様々な出会いや経験が下地となって南房総を拠点としていることです。留まる人もいれば、また他の地を求める方もいます。そうした個々人の繋がりや活動の総体が今、「ローカル」となって全国に広がっているのではないでしょうか。”

自由な発想でローカルメディアを創造すること

今年8月に出版元AWAWAを立ち上げ、9月に『辿りの道』を発表したばかりの新井さんですが、すでに次作の校正が大詰めを迎えており、アイディアには事欠かないとのこと。新井さんが考えるローカルメディアのあり方について最後にお聞きしてみましょう。

“その昔写真の道を志した頃、学生運動が盛んな時代にあって、写真の在り方を真っ向から批判するような二人展(新井克英・大島洋写真展)を新宿紀伊国屋と銀座画廊で2年続けて開催しました。その時招待状に「美しい写真、醜い写真、面白い写真…そんなものはとっくに吸収した。去れ!!若くして老化現象をおこしている写真」という挑発的かつ否定的過ぎた文章をよせたことで、自らの表現をも破壊して自分の首を絞めることに(笑)。しかし、振り返ってみて、それ以降の長い空白は今回へのステップであったと、プラス思考に受け止めています。”

写真技術の完成者「ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールに捧ぐ」と題された1968年銀座画廊での二人展
画廊の壁を撮影し原寸大にプリントして撮影した壁に納めた

“全国版のメディアと異なり、ローカル出版やローカルメディアは自由な発想で生々しい表現する立ち位置でよいと思うのです。移住の体験談一つとってみても、人生の中には喜びだけでなく悲しみや苦しみもあります。よい面にばかりフォーカスしていても、そのことが最終的に受け手や地域のためになるとは限りません。その意味でローカルメディアはコンパクトで可能性に溢れていると思います。もちろん体力との格闘ではありますが、自分の中でまとめ上げたいと思う何かをできる限り生々しく、長く記録していきたいですね。”

近日中に発表となるAWAWA第二弾のフォト・ルポルタージュ『沖縄・思い遥か』(仮題)

AWAWAを設立した主な理由は、国立国会図書館に納品して永久保存をしたいため。その他書籍にJANコードがつけられることから本屋やネットで販売することにもメリットがあります。新井さんは現在、鶴見のゴム通りにある沖縄コミュニティの取材から沖縄と本土の関係に迫ったフォト・ルポルタージュを友人と制作中ですが、これから南房総の書籍を出版する窓口としてもAWAWAを機能させたいとのこと。メディアを制作することには効果や採算性など考慮すべき点も多くありますが、ローカルメディアだからこそできることがあるのではないでしょうか。各地域から活き活きとした今が発信されていくことを願います。

文:東 洋平