(※クラウドファンディングによる支援にご関心のある方は記事末尾のサイトをご参照下さい)
福島県大沼郡昭和村。県の西部、会津地方でも奥の入り組んだ山間の村で、冬は長く厳しく、積雪は平均2メートルに及ぶ。人口1,295人(2017年12月1日現在)、高齢化率55%を超える。ただ、決して活力のない村ではなく、「からむし織」や「カスミソウ」の産地として知られています。
(http://www.vill.showa.fukushima.jp/)
今回の記事作成も押し詰まった11月30日、その昭和村から素晴らしい一報が届きました。「奥会津昭和からむし織 国の伝統的工芸品に指定」というニュースです。道の駅からむし織の里しょうわで記念セレモニーが行われ、馬場孝允村長はじめ各種関係者が集まりました。畑の土から糸、布、織物にまで、生活工芸として昭和村の暮らしの営みの中で活かされてきたからむし織が、時代の変遷の中、守り伝えられてきたことを高く評価されたことの証でしょう。でも、「これがゴールではなくスタートなのだよ」と。
旧喰丸小学校はその道の駅からさほど離れていない場所にあります。なぜ冒頭にからむし織を紹介したか。その伝統工芸の手技はこの地域であるからこそ定着したものですが、取材を進めるにつれ、今や昭和村のシンボルでもある旧喰丸小学校を修復して利用する決定に至った村の意向は、からむし織に託した村民の思いと同じ路線にあることは間違いないと確信したからです。
昭和55年に廃校後、いつか解体をと囁かされ続け、長年の間半ば放置されてきた旧喰丸小学校が修復・利用する決定に至ったプロセスを見ていくとともに、関係者の方々の声を紹介させてもらいます。
※この旧喰丸小学校の呼び名は、投票結果の末、「喰丸小」とすることに決定。この記事でもその呼称を使用させてもらいます。
村民アンケート実施により、修復して利用の決定へ
今回の決定に至った伏線として、2013年に公開された映画「ハーメルン」の影響が大きくあります。坪川拓史監督のもと、5年の歳月をかけて制作されましたが、この映画撮影後に施設は取り壊されることが決まっていました。それほど建物の損壊は激しく、安全上とても部分的な修復で済むような状況ではなかったからです。ところが映画の反響もあり、その保存と利用を求める署名が村内外から計2,384名分集まり、2014年12月村議会で白紙保留することを村長が表明、翌年2015年中に一定の方向性を出したいとの答弁をされました。
そこから、翌年2月に村在住の高校生以上へのアンケート調査が行われ、結果として保存・活用と取り壊しが拮抗し、解体を求める意見がやや上回りました。しかし、解体を求める理由として、修復・管理するに要するコストや人手は、乏しい村の予算と人口を考えるとかなりの負担で、それを次世代の者に背負わせたくないという年配者の方の気持ちも大きかったといいます。
その実態を知り、村役場は、その後喰丸小の卒業生や商工・観光関係など様々な立場の村民をメンバーとする懇談会で直接話しを聞く機会を幾度か設け、意見の聞き取りを行いました。結果「一過性に終わらせない、継続して利用する」という方向に決定、2015年12月村議会で利活用するとの村長答弁に至りました。
そこでその利活用の方針をまずは知りたいと、このプロセスを実質的に主導した中村副村長に伺わせてもらったところ、浮かび上がってきた要点は次のようでした。
①旧喰丸小学校の風合いを可能な限り残すこと
・長年の風雪により、浸食された外壁材
・窓に使われている昭和の時代の歪みのある薄いガラス
・中に入れば、長年の雑巾がけでピカピカになった床...
これらこそが木造校舎を残すことの醍醐味であり、建物の歴史の足跡であります。そのためできるだけ外壁、床板、柱、木製の窓、部材を大切に保管し、再利用するという手間が掛けられています。
②安全性の確保
これが担保されないほど損壊していたため、長年外より眺めるだけでイベントなどでの短期的な利用を除けば建物として利用することができませんでした。①の要件と両立するにはかなりの手間が必要ですが、その上で所により間取り変更、基礎の打ち直し、筋交いによる補強と抜本的な改修を終えて、現在工事進行中です。
③まずは村の方々の交流の場としてから
まずは村のお爺さん、お婆さん、若者、子供達がお茶飲みして団欒する交流の場として、村内をつなぐこと、内向きを優先したいとのこと。その交流の場に外から訪れた方々が触れる体験施設としての観光、外向きの役割を考えたいと。村の生活、言い伝えを繋げていくことが最も大切であるとの認識が伝わってきます。
お話をお伺いすると、まだまだ利用コンセプトの詰めは不十分で、見切り発車的な感は免れません。ただ、重要なのはそれがどれほど的を射ているかということと、熱意だと思います。現状の事業計画と進捗具合をより詳しく知りたい方は、是非下記webサイトをご覧下さい。
(http://re.showavill.info/about/)
喰丸小学校卒業生からの声
次にプロジェクト運営側ではなく、村に住む方、特に喰丸地区の方から生の声を聴かせてほしいと村役場にお願いしたところ、地区を代表する山内冨士雄さんを紹介してもらい、お家に同行して頂きました。映画撮影の後に始まった「イチョウまつり」の会長も務めておられる方で、奥様と共に丁重に迎えて頂きました。
——地元では解体の要望が強かったと聞きますが、今回の修復利用の決定に対してどのようなお気持ちでしょうか。
「喰丸小学校卒業生としては校舎が残ることに決定したことは感慨深く思います。ただ、昭和55年に廃校決定後、今の校舎は早く解体し、新たな土地利用を役場へずっと要望してきました。なぜなら最寄りの民家に落雪の被害が3回あり、管理人のいない中、放火や窃盗への危惧が絶えなかったからです。」
——お気持ちが変わってきた所以というのはどういうことだったのでしょうか。
「あの映画ハーメルンがあってからでしょうか。映画撮影の最後に集落の人がエキストラとして全員小学校に呼ばれ集まったのです。11月初旬でしたが、夜となり二階で出演を待っていると、窓から校庭の銀杏の木がライトアップされた黄金色に輝く姿が臨まれ、地元に住みながら初めて眼にするその美しい光景にとても感動したのです。こんな素晴らしい財産があることを知る初めての機会でした。それで翌年から集落でイチョウまつりを開催して、地元の交流の場にしようとそこですぐに決めたのです。資金のない中、準備金を集めるのは苦労しましたが、村の補助金や、出展店舗協力金、そして祭りに集まって下さった方々から頂いたご祝儀が大きかったです。」
「喰丸集落は現在戸数55、住民は80人くらいですが、一回目は何と500人も集まってくれたのです。県外の車のナンバーもあり、感動しましたね。でも、それからの継続が重要だと思い、教育委員会に話して校庭をお借りし、秋のイチョウまつりに向けて普段から掃除を欠かさずして管理させてもらっています。きっと写真撮影に来られた方々にも満足してもらっているのではないでしょうか。祭りではここの食材で作る地元料理を出して、味わってもらうようにし、また、銀杏を見て食べて終わりというのも寂しいので、女性グループが集まって隠し芸を考案したのです。そのチンドン屋さんが大ヒットでね、外からお越しの方にも喜んでもらっています。」
とその時は思わず笑みをこぼして、饒舌に語られました。
「でもね、喰丸小学校に関係ある地元の者は大半65歳以上で、集まれる人の数は限られています。だから他所からの来客を招けるよう施設を充実しなければと思います。昔なら少し遠慮があったかと思います。でもハーメルン公開の後、お陰様でカメラ撮影の方も増えて、来客様への対応には我々も少し慣れてきました。これからも来客大歓迎です。」
山内さんのお言葉から、プロジェクトが成功するためにも地元の方々が喰丸小を愛していることが最も大切な要件であることを納得することができました。そのために行政側の労力はかかるが丁寧な対応は欠かせないこと、そしてそれを実行されてきたから現在があることが透けて見え、取材しながら感動させてもらいました。
移住者である織姫さんからの声
やはり昭和村と言えば冒頭に記した「からむし織」抜きに語ることはできないでしょう。からむし織の工程や農山村の生活を体験する「からむし織の体験生(通称「織姫・彦星」制度)を利用して来村、その後に定住するに至った方の代表として、織姫第一期生でもある舟木容子さんにお話しを伺わせてもらいました。今や昭和村歴25年になられますが、子供も産んで育てられ、現在は村の観光拠点でもある「道の駅 からむし織の里しょうわ」の駅長として活躍されています。
かつてローカルニッポンでもからむし織紹介の記事を書かれ、織姫の意義についても語っておられます。(http://localnippon.muji.com/1572/)
——まず来村当時の喰丸小に対する思い出を聴かせてもらえますでしょうか。
「同期の方に夫婦で応募された方がおられ、当時山口昌男さん(文化人類学者、東京外国語大学名誉教授、2013年3月没)の喰丸小の書庫管理人として入居されていたので、よく遊びに行き、時々宿泊もさせてもらいました。その楽しい思い出が残っています。でも、任されていたのは書庫の管理だけで、校庭は草ぼうぼう、建物の管理も行き届いていないようで、当時から集落より解体要望が出されていたのにも関わらず、建物を残す村の意向がよく見えませんでした。」
——子供さんが施設を利用する機会はあったのでしょうか。
「近所の子供達は時折プールを利用し、校庭でも遊んでいましたが、校舎は損壊が酷く危険で入れなかったですね。そして、時代が進むにつれて昭和村でも子供の人数が減少するだけでなく屋外で遊ぶ習慣がどんどん減ってゲームが主流になり、喰丸小の管理も手が入らなくなったこともあり、施設としては生殺しのような状況が続きました。管理人がいれば格好の遊び場になるのにと歯がゆく思いつつも、生活には直結しないので、自分の関心からは遠い施設へとなっていきました。それが映画撮影で注目され始めた5年前くらいからですね、学校が再び息をし始めたのは。」
——修復・再利用が決まって、一村民としてまず施設に望むことは何でしょうか?
「まずは建物の中に人を入れること、それには爺ちゃん、婆ちゃんが気軽にお茶飲みに集まる場となることが大事だと思います。地元の方が気持ち良く交流する場所でないと子供も集まりませんよ。そこで老人と子供の交流があれば、ゲームとは違った遊び方を教えてくれるし、そして何より爺ちゃん、婆ちゃんは素晴らしい子供の褒め上手なのですよ。そこで互いに相手を思いやる優しい人の気持ちも養われると思います。そこに村外からお越しの方が加われば素晴らしい交流の場となる可能性がありますよね。」
——駅長の立場からですが、公民館や道の駅と機能がバッティングする可能性についてはどうですか?
「それは連絡網がしっかりし、互いに情報共有が行き届いていれば全く問題ないと思います。逆に一地区に一つ集会場があるくらいが望ましいと思っています。喰丸小については、まずは教育と観光という取っ付きやすいことから始めて、ダメなら再検討と、それを続けていくことにより何が良いか見えてくると思います。まずは走り出さないとですね。特に観光についてはあの施設は訴える力があるので今でも利用させてもらっています。私は道の駅として役割を果たさせてもらうので、村にはどんどん積極的に仕掛けていってほしいですね。」
彼女は村歴が長く、子育てもしてすっかり地元住民となっている様子ですが、外との繋ぎ役としての役割をしっかり認識して活動もされており、考え方がとても前向きで頼もしい印象を受けました。
また、彼女以外にも織姫体験者として、からむし織を通して内と外をつなぐ役割をされている方もおられます。
例えば「渡し舟」を運営されるお二人(渡辺悦子さん、舟木由貴子さん)は、とても丁寧にからむし織と村の生活の在り方を伝える役を担っておられ、その会場である古民家を訪れて会話をさせてもらい感銘させてもらったことがあります。是非再訪したいところです。
(https://www.facebook.com/watashifune/)
このように外からの移住者さんは内と外の繋ぎ役として村の貴重な財産となっておられ、この方々をどうまとめるかは喰丸小の有効利用の一つの鍵であるように思われます。
会津の廃校利用者からの声
会津における廃校利用運営の先行者としてまず思い浮かぶのが西会津国際芸術村のコーディネーターである矢部佳宏さん。私がかつて西会津町に在住していたこともあって交流もあり、ランドスケープアーキテクトを専門とするデザイナーとしてその手腕には定評のある彼に意見を伺ってみました。
——両施設に共通する部分から述べてみてもらえますでしょうか。
「まず木造校舎であることの価値の定義を明確にする必要があると思います。古い建物として価値があるのはまず文化財として。これは特別な意匠や歴史的希少価値のある建物として、生きた教材として価値が認められるものです。ただしそのような文化財に常時触れることはできません。それに対してそのような希少性のない古い建物は、老朽化すると壊され、新築されるのが大半です。でも、そこに価値がない訳では全くなく、古びた建屋には使われてきた歴史と記憶・物語が積層されていて、その一つ一つにおカネでは換算できない価値が存在するのです。それを懐かしさや雰囲気と言えば漠然としていますが、特に学び舎として次世代を育て上げてきた校舎には、その懐かしみに触れるだけで、新しいものを紡ぎ出す創造の源泉にもなるのです。そのように常時そこで利用・活動できることに大きな価値があるのです。」
「特にここのような雪も多い山間地、生活に工夫が必要であった地区には様々な知恵と習慣が詰まっており、その歴史に触れることはとても大切な学習効果があるはずです。その意味で使用されて磨かれ、雪の重みで傷んだ木造校舎はとても貴重な財産だと捉え、運営させてもらっています。」
——それを昭和村喰丸小の場合、交流の場としての活用と観光を合わせて考えていますね。
「いわゆるコミュニティセンターでしょうね。まず村の内向きに老若男女問わず集まって寛ぐ場としての機能があり、一方昔から紡いできた懐かしさも含めたその機能を外部から訪ねて楽しめるかどうかというのが外向けの観光の事業だと思います。そのバランス感覚、裁量の仕方が重要ですね。」
「昭和村はその場作りに投資する決定をし、ふるさと納税として支援を募っておられると思います。それをどのような人を対象にする施設とするのか、その仕組み、運営する人材をどうするかが事業として重要な要件に問われていくと思います。最終的に問われるのは、懐かしさから未来へ繋げる回路をどう企画、提案して、実践に繋げていくかですが、それを社会貢献ビジネスとして育てていくという意識が重要かと思っています。我々の住むような過疎高齢中山間地域でのそういった成功例はまだほとんどなく、僕も日々鋭意模索中です。」
いつも彼と会話して思うのは、事象の分析能力が高く、かなり遠方まで見据えて行動をしているということです。でも、二つの校舎に共通しているのは、その解法と手段は既にあるのではなく自ら模索して探すしか術はないということです。そのために最低必要なのは、有能な人材もさることながら、事業を継続的に熱意もって取り組める人の存在です。それは行政に向けられた大きなハードルですが、それを乗り越えていくことが未来へつながる道のりだと思います。
※西会津国際芸術村サイト(http://nishiaizu-artvillage.com/)
僕たち、私たちにできることは
最後になりますが、本稿はこの喰丸小改修工事についてふるさと納税の仕組みを利用してのクラウドファンディングによる寄附を募ることが目的の一つです。でも、より大きな目的はその寄附で終るのでなく、できるだけ沢山の方に昭和村、奥会津に関心を持ってもらい、ファンとして根付いてもらい、交流の場が生まれ、ひいては移住も考えて頂く機会となればということです。また、距離的に遠く、或いは何らかの理由でお越しになるのは難しい方であっても、もし喰丸小のことに関心を持って想像して頂ければ嬉しく思います。
副村長の中村さんもこう言っておられました。
「今回のふるさと納税の返礼に、高価な品を用意させてもらっているわけではありません。まずは感謝の手紙、それからオリジナルの日本酒、喰丸小にお越しになって利用できるクーポン券、校舎内に名札の掲示等を考えております。御寄付を機縁に喰丸小にぜひ足を運んでもらえればとの思いです。」
「今まで喰丸小には2回の波がありました。一度目は山口昌男さんが来られた時、その次は映画ハーメルンの時です。そして三回目の今回に、村内外の多くの方々の声に後押しされ、村は喰丸小の利活用に本腰を上げたと言えるでしょう。百年先も昭和村らしさを守り伝えるために、時代の大きな節目であるとの覚悟を持っております。」
なぜ昭和村に、喰丸小にこだわるのか。
最終的には一度昭和村、奥会津に来られてゆっくりとご年配の方とお話しし、お過ごしくださいという回答になってしまうでしょう。この山間の厳しい冬がある地区であるから残る貴重な生活の営みとはどういうものだろうか。あの宮本常一がどうして「忘れられた日本人」はじめ膨大な著作で消えゆく老人の声と生活の営みを追ったのか。
僕たち、私たちの未来のためにもその理由をこの喰丸小に重ねて考えてもらえればと思います。そしてもし可能でしたら、ご自分の身の丈に合ったもので結構です。改修工事へのご支援を志して頂ければとても幸いに思います。
文:阪下昭二郎
※ふるさと納税の制度を利用した旧喰丸小学校修復工事へのクラウドファンディングはこちらから。(期限12月28日(木)午後11:00まで)
(https://readyfor.jp/projects/kuimarusho) (http://www.vill.showa.fukushima.jp/pdf/kuimarusho_funding.pdf)