JR中央線・高円寺駅から徒歩5分、賑やかな商店街から小道に入ったところに、銭湯「小杉湯」はあります。1933年に創業し、実に86年もの間、地域にあたたかい湯を提供してきました。最近ではイラストで銭湯の魅力を伝えたり、浴場で音楽イベントを開催したりと、新しい試みで銭湯の可能性を広げています。今回は、時代が移り変わっても愛され続ける小杉湯の魅力を、その建築を通して紐解きます。
小杉湯を代々受け継ぐ平松家と木下家
小杉湯は2代目の平松茂さんが代表を務め、3代目の平松佑介さんとともに家族で経営をしています。
平松家には、お客さんに気持ちよくお風呂に入ってもらうために、代々受け継がれている理念があります。それは、「いつも清潔に、キレイにすること」。だから小杉湯は隅々まで手入れが行き届いていて、建物の老朽を感じさせません。
日々の掃除の延長には、設備のメンテナンスや建物の修繕など、長年にわたる施設の管理が在ります。それを代々担っているのが、木下建設という工務店です。小杉湯と同じ頃に創業し、現在は3代目の木下幸一さんが代表を務めています。平松家と木下家は、長年二人三脚で小杉湯を維持してきたのです。
そしていま、小杉湯の歴史的な価値を見直すプロジェクトが進んでいます。調査をしているのは、設計事務所T/Hの樋口耕介さんと瀧翠さんです。
彼ら“小杉湯ファミリー”に集合してもらい、老舗銭湯の戦前からの軌跡をたどりました。
小杉湯のはじまりと、その時代を生きた先代
東京都公衆浴場業生活衛生同業組合によると、東京都内の銭湯の数は、2017年の時点で561軒。過去最多は戦前の1937年で、約2900軒とおよそ5倍にものぼりました。
小杉湯が建ったのは1933年、まさに銭湯全盛期。唐破風屋根に鯉の彫刻が施された玄関、脱衣所と浴室をつなぐ高い格子天井、立派な宮造の建築です。
こうした東京の銭湯は特殊な建築様式のため、当時は銭湯専門の工務店がいくつもあったと木下さんは言います。木下建設もそのひとつ。記録は残っていませんが、小杉湯の建設には木下さんの祖父が関わっていたと考えられています。
小杉湯の歴史を調べるなかで、脱衣所の屋根裏に打ち付けられた「幣(へい)串(ぐし)」が発見されました。幣串は上棟のお祝いにつくられるもので、1mほどの木の棒に紙で装飾が施されています。そこには「上棟」の文字と「昭和八年四月吉日」という日付、「小山葱太郎」という建築主の名前が書かれていました。
この小山さんが小杉湯を命名した創業者です。「”小”山さんが”杉”並区で始めた」から、”小杉”湯なのだとか。
やがて第二次世界大戦が始まると、都内の銭湯は空襲によって約400軒にまで減ってしまいます。そのなかで、小杉湯は運良く戦火を逃れました。
戦後の復興で銭湯も再び都内各地に建設され、20年ほどで約2700軒にまで数が回復します。まだ自宅にお風呂がなかった当時、銭湯の需要がいかに高かったかがうかがえます。
小杉湯2代目平松茂さん:
「昔は、住宅街に銭湯を建てるのではなく、空き地や田んぼなど、なにもないところに銭湯を建てました。すると、後から周りに住宅が増えて商売になっていく。客を取り合わないよう、隣の銭湯まで必ず300m空けるという決まりもありました」
茂さんの亡き父であり、初代主人の平松吉弘さんが小杉湯を購入したのは、この頃。新潟の仕出し屋の次男だった吉弘さんは、妻のセツノさんと上京し、大田区蒲田で銭湯経営をしていた親戚を頼ります。番頭に入って銭湯経営のイロハを学んでから、独立するべく都内の銭湯を探し周り、小杉湯を見つけました。
茂さん:
「当時の小杉湯はあまりお客さんが入っていなくて、値段も安かったようです。そのわりには建物のつくりは立派だし、駅からも近い。人口も密集していて、将来性があると見込んだのでしょう。新潟から女中さんを呼んで住み込みで働いてもらって、どんどんサービスをよくしていった。苦労している後ろ姿を見てきました」
T/H瀧さん:
「吉弘さんが東京都に提出した営業許可申請書には、一日の利用者予定数が600人と書かれてました。当時の小杉湯のレイアウトからするとちょっと無理がありますが、それくらい入ると思ったのでしょう」
北陸の人々によって栄えた銭湯文化
実は都内の銭湯の初代経営者の7〜8割が、北陸出身者だといわれています。平松家のルーツは新潟、一方木下家は富山県です。そうした背景もあってか、小杉湯の欄間には、富山県砺波地方の工芸品である富士山の両面彫りが施されています。
茂さん:
「仕事を求めて上京するほど銭湯が大きな商売だったんです。どこも家族経営で、建てるときも身内で建てている感じでした」
木下建設木下さん:
「うちも大工はだいたい親戚でしたね。銭湯を建てては売って、また次を建てる。経営を自分たちですることもありました。うちも多いときは4〜5軒経営していました。いまも1軒残っていて、親父の弟が経営しています」
小杉湯3代目平松佑介さん:
「理にかなってますよね。銭湯にまつわることが全部わかるじゃないですか。いまはどんな仕事も役割が細分化されてしまっていて、そうはいきません」
銭湯が生活のインフラだった時代、北陸出身者たちの血縁関係のなかで、建築や経営のノウハウが伝達されていたことがわかります。
職人の頭のなかにだけ残る、かつての銭湯建築
木下さんは、昔の銭湯の建て方をこう話します。
木下さん:
「まだポンプなどなかったので、釜から湯船、排水溝へと自然と水が流れるように設計していました。下水の位置に合わせてすべて高さが決まっていて、いまほど複雑ではありませんでした」
配管をはりめぐらすこともないので、設備はシンプル。図面を引く必要もなかったそう。
T/H樋口さん:
「銭湯の建物の仕組みは、職人の方々の脳内にしか残っていません。だからいま、木下さんをはじめ釜屋やろ過器屋など、古くからの小杉湯の関係者に聞き取りを重ねて、次の時代につながるように仕組みを解明しています」
樋口さんたちは、聞き取りを踏まえて現在の配管の図面を作成しました。「昔はこの10分の1程度の設備でした」と木下さんは言います。
銭湯が更新される「中普請(なかぶしん)」という節目
シャワーさえなかった時代から現在に至るまで、進歩する建築技術に合わせて、小杉湯も設備を整えてきました。その際重要だったのが、銭湯業界で「中普請(なかぶしん)」と呼ばれる節目です。
茂さん:
「中普請は15〜20年のサイクルでやってきます。ちょうど釜や配管の鉄が傷んでくるタイミングなので、大々的に修繕や改装を行うんです。そのたびに木下さんにお世話になってきたわけです」
樋口さん:
「中普請で、お湯をわかすエネルギーも変えていますよね。記録によると最初は石炭と薪、それから重油、いまは都市ガスへと時代とともに移ってきた」
「薪を使っていた頃は、近所の工務店が廃材を持ってきてくれたものです」と茂さん。木下さんも「釘がいっぱいささっていてね。鉄だから、集めて売っていましたね」と振り返ります。そのほか90年代までは、 ”みじんこ” といって製材所で出るおがくずをもらって燃料にしていたそう。
中普請では、設備やエネルギーだけでなく、レイアウトも大胆に改造しています。
茂さん:
「15年前の中普請では、水風呂をつくって、ジェットの種類も増やしました。30年前は亡くなった父がミルク風呂をつくって、いまでは小杉湯の名物です。昔は脱衣所に小さな池があって鯉が泳いでいたこともあるんですよ」
瀧さん:
「小杉湯は、建物は昔のものだけど、経営者がとても柔軟で、施設をどんどん更新していった。毎日お客さんを見ているから、ニーズも見えていたのでしょう。だから長く残っているんだと思います」
中普請という節目があったからこそ、流行や新しいアイデアを自然と取り入れて、小杉湯は進化してきたのです。
86年間、変えてきたものと、変えなかったもの
小杉湯は、経営のなかでサービスや建物の内側をどんどん変化させてきた一方で、建物の躯体は1933年の建築を守り続けてきました。樋口さんは、その価値をこう語ります。
樋口さん:
「いまの建物の多くは、”メンテナンスフリー”を重要視してつくられます。手がかからず、掃除もあまりしなくていい。その点、小杉湯は水を扱っているのに木造の建物で、全然メンテナンスフリーじゃない。ただ、その分人が手をかけてきたことが刻まれている。それが訪れた人に安心感を与えていると思います。人の手が行き届いていることがわかるから、安心して裸になってお風呂に入れる」
毎日丁寧に掃除をすることや、設備のメンテナンスを怠らなかった小杉湯の人々。建物への愛着は、手をかけた年月とともに増していくといいます。
佑介さん:
「うちはおじいちゃんの代、父の代と、清潔にキレイにすることを大切にして銭湯を経営してきました。その理念とこの建物は、ずっと変わらなかったことです。しっかり継承して、これからも守っていきたいと思います」
こうして小杉湯は世代を超えて受け継がれ、いまも昔もたくさんの人々に愛され続けています。
文:吉田真緒
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