今年の冬は、例年よりも雪が早かった。いつもなら山々はクリスマスに間に合うように雪化粧をするのだが、この冬は12月初旬から降りはじめた雪が根雪となった。
雪が多いと、心配されるのが倒木による停電だ。今年も私が住む三島町では5回ほど停電が起きた。幸いいずれも夜をまたぐことはなかったが、そのうちの1回は水道施設のポンプの送電線が切れて1地区が断水となった。
4年前の冬には正月2日から4日間に及ぶ停電があった。水分を含んだ重い雪が降り積もり、山林の中を通っている送電線があちこちで断線したのだ。降りしきる雪の中、電力関係者が総出で復旧を急いだが、なかには林の中の送電線の場所まで行くのに何時間もかかるところもあり、電線がつながるまで地区の人々は電気なしで正月を送った。
その後、この地区では、冬は反射板のストーブと湯たんぽを必ず備えるようになった。町行政は各地区集会所にオイル式の発電機を配備することにした。
大雪というのがこの停電の直接原因ではあるが、電線を設置する際に電力会社がなるべく距離が短いようにと山林を通してしまったことと、当時は植えられたばかりの杉が、今は大きく育ってしまっている、ということが新たな原因となっている。一番の問題は、植林された杉が、その後ほとんど手入れされないでいるということだ。いい杉を育てるためには、ある程度育った時点で間伐をし、下枝の枝打ちをして手入れをする。だが、輸入材が入ってきて国産杉は売れなくなってしまったため、植えた杉林のほとんどがほったらかしだ。持ち主も手入れをしないのだから、誰かに頼んで売れないものに金をかけてまで手入れすることなどもちろんない。毎年、冬の間に林のあちこちで弱い杉が倒れるのだが、春になってもそれを片付ける山主はほとんどいない。そうやって林は荒れてきている。
その長い停電のあと、春まだ浅い3月11日に、東日本大震災が起きた。 ここ会津の山間部は海からも遠く、また地震の被害もほとんどなかった。しかし東京電力福島第一原子力発電所事故による放射能の拡散は濃淡の差こそあれ日本全国に影響を与えてしまった。その混乱の中、多くの人が、原子力から脱却して再生可能エネルギーへ転換していかなくては、と感じたと思う。会津に住む私たちは、この傷ついた福島と共にどうやって生きていったらいいのかを真剣に考えることになった。
会津での二つの動き
◆会津みしまエネルギー研究会のはじまり
三島町では、たびたび起きる冬の長い停電により、電気を遠くから持ってくるのでなく身近なところで作ることができないか、と何人かの人が考え始めていた。そして起こった未曾有の大震災。新しいエネルギーのあり方を求める気持ちが高まっていった。その6月、会津若松の民間グループが、小水力発電所の見学ツアーを開催するということを知り、三島町からも3名がそのツアーに参加した。行き先は、栃木県那須野ヶ原土地改良区の小水力発電所とウォーターパーク。その見学で三島町でも只見川の支流を活用した小水力発電ができるかもしれないという思いを強くした3名は、有志に声をかけ、小水力について学ぶ会「会津みしまエネルギー研究会(Amre)」が立ち上がることとなる。
現在はNPO法人を取得し、小水力発電の学習会、河川の流量調査をはじめ、地域の小学校・公民館と連携して子供たちに向けた再生可能エネルギーの工作教室やワークショップを行っている。
◆会津自然エネルギー機構のはじまり
大震災以降、原発事故の被害に苦しむ福島県の多くの人たちは、放射能への恐怖と共に、原子力に代わるエネルギーを求め始めていた。当時、復興会議のメンバーでもあった県立博物館長の赤坂憲雄氏は、新聞雑誌等で「原子力から自然エネルギーへの転換をすることが、福島が負ってしまったマイナスのカードをひっくり返すことだ」と述べていた。そのことに共鳴した人たち約200名が、大震災から4ヵ月後の7月20日に会津喜多方市の大和川酒造昭和蔵で開催された緊急シンポジウム「原子力から自然エネルギーへ」に結集した。
そこでは、原発災害に苦しむ福島において、会津が新たなエネルギーの取り組みを進める推進的役割をになうこと、そしてこの取り組みは、エネルギーを自分たちの手に取り戻す「自由民権運動」である、という想いが共有された。
その後、再生可能エネルギーに関する学習会、シンポジウムを重ねて、2013年春に「一般社団法人会津自然エネルギー機構(AiNEF)」が誕生する。そこから実際に発電事業を進める事業体として「会津電力(Ai Power)」が生まれ、互いに連携した活動を継続している。会津自然エネルギー機構では、会津の山林を活用したバイオマスエネルギーの取り組みや木こりプロジェクトを、荒れた山林の整備も視野に入れて始動しており、次回はその活動を紹介したいと思う。
文:会津自然エネルギー機構 代表理事 五十嵐乃里枝