木造校舎で味わう自家栽培・石臼挽き・手打ちの絶品蕎麦
千葉県鴨川市在住。ジャーナリスト。農的暮らしを求めて移り住んだ地で里山保全活動にも取り組む。海外ではブラジルのスラムやアマゾンを継続して取材。先住民族の暮らしに人と自然が共生する場「里山」を感じている。
房総の山々に新緑がまぶしい季節。ドライブやツーリング途中でお腹をすかせた人たちにひそかに人気の場所を求めて、千葉県夷隅郡大多喜町の森の奥を訪ねてみました。週末と祝日にだけ営まれている古い木造校舎のお蕎麦屋さん「もみの木庵」です。そこは、廃校になったかつての学び舎に込める集落の人たちの思いと、おいしさへのこだわりがつまった、初めて来た人にもなんだか懐かしい場所でした。
集落活性化の願いを込めて廃校舎を蕎麦店「もみの木庵」に再生
渓谷美で知られる養老川の流れに沿って最上流部へとさかのぼりながら、くねくねと曲がる狭い道が木立の中に続きます。大多喜町と勝浦市とを結ぶ県道178号線は、南房総らしさを感じさせる山道です。大多喜町の南のはずれまで走り、町境のトンネルの少し手前の脇道を西に入ると、じきに「もみの木庵」に到着しました。広い校庭の奥にたたずむ古い木造校舎は、1951年の建造。旧大多喜町立老川小学校(2014年3月閉校)の分校「会所(かいしょ)分校」として、ここ会所地区に開校し、その後、児童数の減少によって2001年3月に半世紀の歴史の幕を閉じました。
「会所は戦後、満州から千葉県内に引き揚げて来た人たちが開拓者として入ってできた集落です。昔は子どもたちが多くいてね、分校はにぎやかでしたよ」。機械のない時代に山の斜面を人力で切り開いて田畑に変えた開拓者の、2世代目にあたるという佐藤雄隆さんが懐かしそうに語ります。
佐藤さんは、もみの木庵を運営する会所地区の地域団体「もみの郷会所運営委員会」の会長を務めています。校舎が朽ちていくのは忍びない。建物を活用して過疎が進む地域を活性化できたら……。そんな思いで2002年に集落の人たちが同委員会を立ち上げました。大多喜町から校舎の維持管理の委託を受けて、現在、10名のメンバーで活動を行っています。
地元農産品の直売所の試みを経て、蕎麦店「もみの木庵」と蕎麦打ち体験教室の「もみの郷会所」を開いたのが2003年のこと。営業は基本的に土日と祝日だけですが(団体の場合は平日でも予約対応可)、遠方から毎週必ず食べに来るという根強いファンの人たちにも支えられて、年間およそ8000人のお客さんを迎えているそうです。
地元の畑から直送の蕎麦や野菜を手打ち・手作りで
もみの木庵の人気の理由のひとつは、店で出す料理の主な食材が集落の畑で栽培されたものだということ。特に、大多喜町内で栽培が行われているのはこの地区だけという蕎麦は、標高200メートルに位置する会所ならではの気候に育まれた香り高いものです。天候不良による不作のリスクを避けるために、年間で使う蕎麦の半分は県内の他地域の農家から買い入れているそうですが、千葉県産100パーセントの蕎麦を出す店は、なかなか出会えるものではありません。
お蕎麦には、厨房を預かる女性たち手作りのお漬物が添えられます。「うちの畑の無農薬の野菜だからおいしいわよー」と笑う農家のおかあさんたちの「我が家の味」に、思わず作り方を教わりたくなってしまいました。薬味のネギも、もちろん「うちの畑」のもぎたてです。また、店で使う水は、40メートルの深井戸から地下水を汲み上げています。豊かな森が育む水は「おいしい水」と評判で、持参の容器に水を詰めて持ち帰るお客さんも多いそうです。
そして主役の蕎麦は、もちろん手打ち。玄蕎麦をその日の朝に石臼で挽いた粉を使っています。蕎麦を打つ場所は、分校時代に体育館だった建物です。営業日は、朝から会長の佐藤さんをはじめとする会のメンバーやボランティア数名で、せっせと蕎麦打ち台に向かいます。こねて、丸めて、延して、切る……。トントントン、と包丁のリズミカルな音から、美しく切り揃えられた蕎麦が生まれて行きます。
麺は、玄蕎麦の皮を除いた粉で打った色白の「白」と、皮も一緒に挽いた色黒の「田舎」の2種類。蕎麦の香りをより強く味わえる「田舎」を、お客さんの8割が選ぶそうです。忙しい日には提供していないという隠れメニューの蕎麦がきも、お薦めの一品。蕎麦粉を熱湯で練り上げて作るお餅のような食感の食べ物です。黒蜜添えという珍しい食べ方が、和スイーツのようで新鮮でした。
蕎麦打ち体験教室は、段位を目指す人の修行道場としても
旧体育館では、「もみの郷会所」という名称で蕎麦打ち体験教室も実施されています。広い室内にはメンバー手作りの木の蕎麦打ち台が11台ずらりと並び、店で出す蕎麦を打つかたわらで、体験のお客さんたちが楽しむ姿がありました。この日、参加していたバイクのツーリング仲間のグループは、千葉市内から房総半島を南下して、途中、もみの木庵に立ち寄る計画を立てたそうです。ここでの体験は2度目という人も、蕎麦打ちは初めてという人も、先生役の手ほどきで、なかなか上手においしそうな蕎麦が打ち上がっていました。
蕎麦打ち体験は要予約で、体験費は1卓あたり初回が3500円、2回目からは3000円です。1卓で4〜5人前の蕎麦が打て、体験後にはもみの木庵で試食ができます。「自分で打った蕎麦はおいしいですね」と、舌鼓を打つ人たちから笑みがこぼれました。
もみの郷会所は体験教室だけでなく、蕎麦打ちの「修行道場」としても活用されています。蕎麦文化の普及活動を行う一般社団法人全麺協(本部・東京)が主宰する「素人そば打ち段位認定制度」に挑戦したい人に、段位向上の腕を磨く場を提供しているというわけです。もみの木庵で出す蕎麦の打ち手は全員、この段位認定制度の有段者。会のメンバーに加えて、修行の場を求める人がボランティアで蕎麦を打ちに通って来ているそうです。
時間を閉じ込めた木造校舎の教室で味わうひととき
木の床板の廊下に沿って教室が並ぶ古い木造校舎は、まるでタイムカプセルのようです。廊下や教室の壁いっぱいに張り出された子どもたちの作品。時間割表に、習字の練習の半紙。その日の当番の児童の名前が隅に残る黒板。地区のようすを絵で図解した地図は、社会科学習の発表でしょうか。閉校となったあの日のままの時間が、そこには閉じ込められています。
もみの木庵の食事処として使っている教室3室は、昔のようすを壊さない程度に少しだけリフォームの手が加えられています。「床を張り替えて、窓をサッシに替えて、テーブルを作って。全部、会のメンバーでやりました。でも雰囲気は昔のままです。大人になって、いまはよそで暮らす地区出身の子たちが、帰省してここに来て、『わー、懐かしい。これ自分が書いたやつだよ』なんて言っていますよ」。そう語る佐藤さんの表情から、この場所への深い愛着が伝わってきます。
佐藤さんが、ふと教室の天井を指差して言いました。「ほら、天井板に、いっぱい痕がついてるでしょ。みんなで土で汚れたボールや雑巾やらを天井に当てて、よく遊んでいましたからね」。昭和のいたずらっ子たちが学んだ教室でお蕎麦を味わっていると、卒業生でもないのに、なんだか懐かしい気持ちになって来るのが不思議です。ここで子ども時代を過ごした人たちの大切な時間の記憶が、この場所に留まっているからなのかもしれません。
もみの木庵から西へ車で5分ほど走れば、関東随一のアジサイの名所として知られる麻綿原(まめんばら)高原があります。6月下旬から7月下旬にかけての季節には、丘陵の斜面を埋め尽くして花が咲き誇ります。もみの郷会所運営委員会では毎年7月の第3日曜に、花の見所の中心となる妙法生寺で蕎麦供養を行い、観光客に無料で蕎麦をふるまうそうです。そして懐かしい時間を味わいに、もみの木庵にもぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょう。途中、道幅が狭いところも多いので、運転にはくれぐれもお気をつけて。
文・写真 下郷さとみ
もみの木庵・もみの郷会所(蕎麦打ち体験は要予約)
千葉県夷隅郡大多喜町会所154
電話:0470-85-0255(土日祝)
リンク:
麻綿原高原(大多喜町観光協会HP)