ローカルニッポン

荒地に花を。菜の花畑の背景にある物語。

書き手:高橋洋介
耕すデザイナー。マックブック片手にトラクターを乗りこなす。
千葉県市原市出身。市原市在住。里山暮らし。

菜の花は勝手に咲くものではありません。この菜の花畑の背景には10年にわたる沿線住民の努力と汗、それを支える強い思いがありました。

千葉県市原市を南北に縦断する小湊鉄道。沿線には田畑や集落が点在し、それらを縫うように小湊鉄道が走ります。菜の花が見頃を迎える3月から4月にかけ、沿線を一斉に黄色く染める菜の花と、その真ん中をゆっくりと走る小湊鉄道は、春の奥房総を代表する風景の一つとなりました。

菜種の刈り取りをする沿線住民

菜種の刈り取りをする沿線住民

小湊鉄道沿線には25の地域団体があり、それらをまとめて里山連合と言います。養老渓谷駅は石神なの花会、上総大久保駅は国本一心会、月崎駅は森遊会、飯給駅は市原ルネッサンス、里見駅は喜動房倶楽部、高滝駅は東朋会、、、それぞれが各駅周辺の整備活動を自主的に行う勝手連です。“花さえ咲けばいい”と言いながら汗を流す姿は、まさに現代の花咲か爺さん。駅周辺や休耕地への菜の花の種まき、沿線の薮刈りなどを行い、”車窓から見える景色をみんなできれいにしていこう”そんな活動を10年前から続けてきました。

里山連合会長の松本靖彦さんは現在76歳。10年前、菜の花の種を最初にまき始めた初代”花咲か爺さん”です。松本さんが種をまき始めた当初、沿線の風景は荒れ始めていました。山間部でまとまった農地の少ないこの地域で農業を生業にすることは難しく、また米も安く買うことができるようになったため、田畑の耕作をやめる家が増えていきました。ガスや電気が普及し、燃料も自分たちで作る必要がなくなったため、山に入って薪や炭を作ることもなくなりました。また車や交通網が発達し都心部へのアクセスがよくなったことで鉄道を使うことも少なくなり、若者は仕事や便利さを求め都心部へ流れていきました。その結果、田畑は荒れ、山は暗くなり、空き家が目立つようになったのです。

里山連合の総長、松本靖彦さん。毎日沿線のどこかで汗を流しています。

里山連合の総長、松本靖彦さん。毎日沿線のどこかで汗を流しています。

松本さんの住む飯給(いたぶ)地区も例外ではありません。代々耕し続けた土地や、美しかった田畑もあっという間に藪になってしまいました。小湊鉄道から見える風景も荒れ始め、竹藪で鉄道が見えなくなってしまった場所もあったそう。

かつての美しかった里山の風景、そこでの暮らし、車窓からの風景をこのまま終わらせるわけにはいかない、先祖代々受け継いで来た風景を次の代へ、そう思った松本さんは、小さな無人駅の周りに菜の花の種を撒き始めました。まずはのびた草を刈り、そこに菜の花の種を撒き、それから各沿線の同じ思いを持った同士に声をかけ、徐々に活動を広げていきました。最初はたった3人で始めたこの活動も、今では総勢150人を超え、沿線の団体数は25にもなりました。誰も見向きもしなかったこの地域に今では1日何百人もの観光客が訪れるようになりました。10年間で観光資源の一つとなる風景を作り上げてしまったのです。また、3人の花咲か爺さんから始まったこの物語は、この後、様々な広がりを見せていきます。

このように生まれた美しい景色を楽しむために、小湊鉄道はトロッコ列車を走らせることになります。2015年から運行を開始した里山トロッコは上総牛久(かずさうしく)、養老渓谷間おおよそ20kmを時速30kmで走り抜ける現代版蒸気機関車です。里山連合や、かつての里人が作り上げた風景を楽しむために、天井をガラス張りに、風をさえぎる窓は取り外しました。里山をゆっくりと走る抜けるトロッコ列車と、それに向かって手を振る住民の姿も、この地域を代表する風景となりました。

汽笛を鳴らしながら走るトロッコ列車と手を振る住民。

汽笛を鳴らしながら走るトロッコ列車と手を振る住民。

そして、行政はその風景を舞台にした芸術祭を企画開催することになります。舞台となる里山を里山連合が作り出し、アーティストはその里山を舞台にした芸術作品を作り、小湊鉄道はそこに都心部の若者を連れてくるのです。

さらに、里山連合の活動に協力しようとする市民が増え始めました。里山連合が作る菜の花畑の一つ、石神菜の花畑では、毎年沿線住民とボランティアによる菜種の刈り取りが行われています。3月に見頃を迎えた菜の花が、刈り取りの季節を迎えるのは5月上旬。1週間ほど天日で干し、パリパリに乾いた菜の花をブルーシートの上に広げ種を叩き落としていきます。落とした種には房や屑が混ざりこむため、篩や唐箕を使って選別を行います。沿線住民や他地域の住民が一緒になり総勢60人で2.5町の菜の花畑の菜種を収穫します。このようにほとんどを手作業で収穫した種は沿線の各里山団体に配られ、9月の第4土曜日 各地で同時にまかれた種は、冬を超え、春になると一斉に開花し、沿線を黄色く染めます。

篩や唐箕を使った昔と変わらない方法で種をとる。

篩や唐箕を使った昔と変わらない方法で種をとる。

最近では、この地に移り住み、活動を継承しようという動きも出始めました。収穫した菜種の一部から菜種油を作り販売して得た利益で花畑を維持しようとする取り組みや、この活動を多くの人に知ってもらおうとする取り組み、蜂蜜を商品化し、新たな生業を作る取り組みもスタートしました。里山連合が作り上げて来た風景や活動を、次の世代が継承していこうとしているのです。沿線の空き家に移住したり、都市部に住みながらこの活動に関わりを持つ若者も増え始めました。

こうして、この地に徐々に光があたり始めたのです。誰も見向きもしなかった地域に、今では大勢の観光客がくるようになりました。捨てられるばかりだった地域に、若者が移住し、選ばれる地域になりました。10年前にたった3人で始めた小さな活動に、民間企業、行政、市民、移住者が賛同し大きな活動になっています。

「風景は作ることができる」、松本さんの話を聞くうちに、そう思うようになりました。同時に「風景は手を入れ続けなければいけない」、里山連合の活動に参加するうちに、そう思うようにもなりました。この地域にある山や田畑は先祖代々たえることなく手を入れ続けた自然です。手を入れ続けた自然はあたたかくて美しい。里山連合やかつての里人が引き継ごうと努力してきた風景を、私たち次の代は受け継ぐ努力をし、きちんと受け継いでいく使命があります。

5年前まで竹藪で鉄道が見えなかったという”のだっ掘”。いまは春に一面菜の花畑となる。

5年前まで竹藪で鉄道が見えなかったという”のだっ掘”。いまは春に一面菜の花畑となる。

9月8日に起きた台風15号はここ市原市にも大きな被害をもたらしました。土砂崩れによる県道の封鎖、それに伴う養老渓谷方面の復旧の遅れ。停電は19日夜まで続きました。停電が続く中でも、21日に行われる種まきに向け里山連合はできることを続けました。倒れた倒木を撤去し、草を刈り、堆肥を入れ、畑を耕しました。

種まきに来るボランティアを受け入れるための炊き出しの準備や物資の届かない集落へのカレーライスの炊き出しも行いました。

養老渓谷方面の停電が復旧したのは種まきの2日前、19日の夜。翌20日には里見駅ー上総中野駅間の試運転が行われ、21日の朝、小湊鉄道は全線で運転を再開しました。21日に行われる予定だった種まきは、こうして無事に行われたのです。
13日ぶりに走る小湊鉄道と、それに乗って来るボランティアを里山連合は手を振って出迎えました。

10年前まき始めた種が、ようやく花を咲かせ始めたのが今なのかもしれません。種まきは南市原の未来を作ります。里山連合はこれからも種をまき続けることでしょう。

文:高橋洋介
写真:松本靖彦・高橋洋介

リンク:
飯給里山便り2
ハルイチバンプロジェクト