東京からバスを乗り継いで約3時間、車が無くても楽しめるのが白浜のよいところ。そしてこれからの季節におすすめなのが自転車での散策です。シラハマ校舎にはシティサイクルが5台あり、小屋のメンバーや宿泊者でシェアしながら利用しています。
白浜の地図はとても簡単!
白浜は海沿いの漁業集落が集まってできた横に長い町。全国地図でも一見してわかるよう千葉県最南端の海岸線に沿い、その長さは10.25kmほど。都内の中央線に例えるなら、東京駅~高円寺駅くらいでしょうか。この中に14の地区が並び、国道沿いに地名がついたバス停と港があるので、地図がなくても迷子になることはまずなさそう。今回は白浜町の西側、おおよそ4.5kmの範囲に収まる5つの地区を自転車で回り、集落の見どころをお伝えしたいと思います。
根本地区:藩校跡と美しい砂浜を訪ねて
まずは、町の西端に位置する根本地区。明治の大合併(1888-1889)までは館山藩根本村として独立していたこともあり、旧長尾藩に属した近隣地区とは一線を画していたようです。そしてその象徴ともいえるのが、旧根本小学校跡地。根本小学校の歴史は古く、明治2年に江戸藩邸内の藩校を根本村に移して新築された「敬義塾」が始まりとされています。現在の建物は地域の公民館として建て直されたものですが、今も石造りの細長い門柱や塀には当時の面影が残り、苔の生えた正門から階段を上がると、芝に覆われたかつての校庭が広がっています。
旧根本小学校を背にして南へ。マキの木の生垣に囲まれた小道を抜け、国道410号を渡れば文豪たちが愛した根本海岸が見えてきます。キャンプと海水浴客で賑わう真夏を除けば、そこは人知れぬ寂寞(せきばく)の地。「山ねむる 山のふもとに 海ねむる かなしき春の 國を旅ゆく」こんな歌を詠んだ若山牧水の逃避行に思いを寄せ、砂浜を裸足で歩いてみるのもよいかもしれません。
砂取地区:竹やぶトンネルとストックの香り
続いて、シラハマ校舎も属する砂取(すなどり)地区。ここから先は旧長尾藩・滝口村エリアで、海辺の景観も穏やかなビーチから一転、荒々しい岩場に変わります。
広大な竹やぶを切り開いて開墾したであろうこのエリアのサイクリングは、富士山の見える海岸道路だけでなく、地域の中に張り巡らされた細道を走るのもおすすめです。道の両脇から伸びる背の高い竹は、頭を垂れてしなやかに曲がり、通りの上にトンネルのような造形を作り出しています。竹の下を歩けば夏でも涼しいというのは地元の子供たちの常識。道幅が狭く車の通りが少ないので、通学路としても利用されてきました。
ところで「砂取」という地名だけに、海岸から離れた場所でも砂地が多いのがこの地区の特徴です。決して肥沃とは言えませんが、水はけのよい畑では金魚草やストックなどのハウス栽培がさかんに行われてきました。日中は、風を通すためにビニールがたくし上げられ、その隙間から花の甘い香りが漂います。
本郷地区:文化財と戦跡を求めて
今度はシラハマ校舎の東側、本郷地区へ向かいます。まずは南房総市の無形民俗文化財・下立松原神社の参拝から。ここは安房の国開拓の祖を祀る神社で、代々安房忌部氏の子孫が神主を務めてきました。
入口の階段から拝殿までは三か所の長い階段があり、途中には記念碑や慰霊碑、石灯籠や狛犬などが設置されています。この歴史ある荘厳な神社は全体が深い森に包まれていて、その雰囲気から、ここを訪れればしばし日常の雑念を忘れることができるような気がします。
その神社から程近いところには次の見どころ・眼鏡橋があります。明治21年3月に竣工した洋式三重橋は、戦時中に戦車が通過したことでも知られています。橋の上に立つと、露出した山肌には、今も防空壕や古井戸の跡が見えてきます。向こう岸へ渡り、山の踏みつけ道を上ると、小さな見晴らし台に辿り着きました。白浜は東京湾の入口、ここから太平洋を見つめた人がいたのかもしれません。
ところで、この眼鏡橋も市の指定有形文化財になり、近年駐車場や遊歩道が少しずつ整備されました。そしてこの橋が掛かる長尾川は全長12.1kmの二級河川。石造りの階段を下りて河川敷に立つと、冷たくて爽やかな風が体をすり抜けていきます。
川下地区:旧長尾村のダウンタウン
本郷の隣は大所帯の川下(かわしも)地区。名所となる建築物も、俳人が描写した風景もないけれど、雑多でエネルギッシュな生活臭は海辺の町そのもの。メインストリートのシャッターは久しく下りたままですが、ここは時計を昭和に戻し、かつての賑わいを感じてみるとしましょう。
目印となるバス停から坂を下ると、最初のシャッターは魚屋「しながわ」。漁村の鮮魚店にアジやカツオが並ぶことはなく、注文するのは遠洋のマグロ。お祭りや法事、祝いの席では欠かせないものでした。その隣は、立派な門構えの残る不動産建設会社。ノスタルジックな看板デザインは当時のまま残されています。
少し歩いて駄菓子屋「けいどん」。離れの掘っ建て小屋にはインベーダーゲームもあり、平成の途中まで子供たちがお小遣いを握りしめて通った散財スポットです。モロッコヨーグル、うまい棒、1回50円のガチャガチャ。当時は景品無しの「ハズレ」も存在し、子どもにとっては手厳しい時代でした。
その先にはホテルを称する2階建ての旅館。奥まった玄関からは落ち着いた雰囲気が伝わってきます。当時は珍しいテラスがあり、浴衣姿の泊り客が寛ぐ佇まいはどこかモダンな印象でした。
旅館の先の「森田屋」は生鮮食品から文房具、乾物、洋菓子、時計まで人々の生活を一手に担う小売店でしたが、それより以前の大正~昭和初期にかけては三地区(本郷・川下・砂取)唯一の呉服店。たいそう繁盛したようで「楽あれば苦あり、森田の旦那」(金持ちだと目をつけられて泥棒に狙われる、財産を守る苦労が多い)という流行語が生まれたほど。
そして昭和の終わり、森田屋の先には女子の憧れ・ファンシーショップがオープンしました。新築された真っ白な店舗には、町一番の美人オーナーが東京で買い付けた洋服や雑貨、文房具が並び、小学女児のメッカとなりました。道を挟んだタバコ屋には、背が高くハンサムなおじいさんがいて、お遣いに来た子どもたちにお菓子をくれたものでした。
メインストリートのお店紹介はこれでおしまい。ですが、この川下地区は広く、脇道に入れば酒屋、八百屋、美容院などかつての賑わいを感じさせる商店の跡がまだあります。ぜひ散策してみてください。
西横渚地区:丘陵住宅が作る階段景観
川下地区の住宅地が国道から海に向かって広がっているのに対し、その先の西横渚(にしよこすか)地区は、国道から山に向かって発展したような造りをしています。丘陵地に密集した住宅群は白浜町内でも類を見ず、景観はとても個性的。
バス停から路地に入る際は、自転車から降りて押していきましょう。細い坂道はどこも急傾斜でカーブが多く、ギアを一番軽くしてもペダルを漕ぐのが大変です。ブロック塀で囲まれた家屋と軽自動車も通れないほどの細道が伸びる集落は、まるでモロッコのメディナ。それでも大半の住宅が南向きオーシャンビュー、日当たり良好、風通し抜群です。さらに高台のお堂から鑑賞するヴィスタ景(見通し景)は、家々の屋根の連なりの向こうにコバルトブルーの海が見え、素晴らしい眺望となっています。
ところで、この地区の畑はどこにあるのでしょうか。高台の更に上に新しい道路が通じ、そこから山裾にかけて広がる平地が農地になっています。また、集落の坂を降りた国道の先にも、水道設備が整えられた土地改良区があり、比較的大きな規模で農業が行われています。考えてみれば、トラクターが入れない丘陵地の棚田は作業負担が大きく、続けていくのが大変。それならば農業は広い平地で行い、住宅は傾斜地に…というスタイルはとても合理的に思えてきます。ただ、細かいことを言えば延焼不安が大きいですし、生活音やプライバシーなど現代的な心配事もあります。もしかするとコミュニティとしては既に次の局面に差し掛かっていて、やがては新しい展開を迎えるのかもしれません。
さて、西側5地区を巡った第一弾のサイクリングコース、いかがでしたでしょうか。記事で取り上げた立ち寄りスポットはほんの一例。これからも自転車の旅でたくさんの発見をしていきたいと思います。