ローカルニッポン

シラハマ校舎の過ごし方vol.3 ~シェアサイクルで巡る白浜<2>~

書き手:多田佳世子
安房郡(現・南房総市)白浜町出身。東京―白浜の二拠点&別居婚生活を経て、2013年に白浜へUターン、夫と同居を始める。母校である長尾小学校を利活用し、2016年よりファミリー・ビジネスでシラハマ校舎を運営している。

5月下旬に新型コロナウィルスによる緊急事態宣言が解除されて1ヵ月が経ちました。当時の発表では、6月19日以降は都道府県をまたぐ移動が可能になり観光も推進されるはずでしたが、感染第二波を懸念する声もあり、ポストコロナではなく “ウィズ・コロナ” 、コロナと共存していく方向に舵が切られたようです。

財政を大きく観光に頼る南房総では先行きの不透明感が否めませんが、全世界で新しい生活様式を考えるにあたり、近場の旅行を楽しむ「マイクロツーリズム」という流れが出てきました。私自身もようやくステイホームを脱し、自転車での散策を再開。今回から三密回避に強いマイナーな観光スポットを中心に紹介していきたいと思います。

東横渚地区:槇の木ストリートを行く

敷地の入口を彩る槇の木のアーチ

敷地の入口を彩る槇の木のアーチ

前回(シェアサイクルで巡る白浜<1>)は南房総市白浜町の西側半分、旧長尾村5つの集落を巡りました。今回は西の端から数えて6つ目の東横渚地区から出発します。こちらの集落は元々人口が少なく、立ち寄りポイントも老舗の和菓子店「白浜堂」と避難場所になっている加茂(かも)神社ぐらいでしょうか。

加茂神社は明治43年に59戸の氏子により、地区内の高台に建てられました。境内は今もきれいに手入れされていて、気持ちのよい風が吹き抜けています。神社の周辺には生垣に囲まれた昔からの住宅が点在し、槇の木を剪定して作られた入口のアーチが近隣にはない特徴となっています。

島崎地区:白亜の灯台と海女文化

遊歩道と広場に囲まれた野島崎灯台

遊歩道と広場に囲まれた野島崎灯台

次は房総随一の観光名所・野島崎灯台を有する島崎。文字通り千葉県最南端の集落で、地図を見てもわかる通り、東京湾へ出入りする船舶にとって古くから重要なポイントでした。

野島崎灯台は、江戸時代の終わりに徳川幕府が英米仏蘭の4か国と結んだ改税約書により建設を約束された灯台のうちの一つで、明治2年、日本で2番目に点灯しました。関東大震災や太平洋戦争で大きく損壊しましたが、修復を重ねて現在の形になっています。また、全国に16しかないのぼれる灯台という点で、観光スポットとしても人気があります。昭和の観光ピークは過ぎましたが、食堂や土産物屋が集まったこのエリアは、今も週末になると賑わい、公営の駐車場もすぐにいっぱいになります。

ところで白浜の海岸線は元より、灯台周辺の土地も元禄地震(1703年)の時に隆起した段丘地形が特徴で、むき出しになった茶色い岩肌を彩るように濃緑の芝が生い茂っています。昭和30年代頃までは牛が繋がれ、半裸の子供たちが海から上がり、なんとも牧歌的な風景がありました。現在、同地は南房総国定公園となっており、遊歩道が敷かれ、見晴らしのよい散策コースが整備されています。伊豆から逃れた源頼朝が身を隠したと言われる伝説の岩屋や、最南端の碑、海洋美術館ほか、遊具のある公園もありますので、昼食や休憩はぜひこの公園で。最近では2018年に公開された草刈正雄さんの主演映画「体操しようよ」のロケ地巡りで、ここを訪れる方もいるそうです。

余裕のある方は海を背にして坂を上り、海女たちの住処へ。先の元禄地震で隆起した土地に形成された島崎地区の深南部は非常にコンパクト。家庭菜園も駐車場も作れない狭い土地はコンクリートブロックで仕切られ、槇の木のような優雅な生垣はありません。道幅も極端に狭く、江戸時代から幾度となく大火に見舞われたため、地域の人々は火防の神様の来臨を願い、人丸(火止まる)神社への参拝を重ねています。

人丸神社。昨年の台風で倒壊し、今年の2月に再建されたばかり

人丸神社。昨年の台風で倒壊し、今年の2月に再建されたばかり

そして大通りに面した集落の入口には元海女たちが籠る御堂と墓地。ここは高台にあるので各戸の様子がよく見えます。荒っぽい海の民が織りなす家庭内の喧騒も丸聞こえ。墓の手入れを口実に他家の様子を伺う無風流は今も続いているのでしょうか。

青木地区:繁華街と民話の里

続いて青木地区。ここからは商店や医院、歯科、美容院、生活に必要なお店が揃った町の中心部が始まります。もちろん海岸沿いには大型ホテル。昭和50年代は置屋の芸者もタクシーも大忙し、南洋から来たダンサーたちもこの町の風景の一部になっていました。

中でも、画家 藤田嗣治、女優 高峰三枝子など数々の著名人が好んで投宿したのが岩目館。上皇ご夫妻も皇太子・皇太子妃時代に白浜を訪れ、海女のアワビ漁を見学し、宿をとられたそうです。そして岩目館の当主であった森田福之助さんが町おこしのために作詞したのが「白浜音頭」。民謡ブームに乗って全国で有名になり、白浜では今もなお歌い踊り継がれています。

やがて岩目館は閉館し、地元の人々で賑わうスーパーマーケットに姿を変えました。道路の向こう側では白浜音頭を踊るブロンズ像が海に背を向け、ホテルの跡地にその視線を送っています。

多く著名人が訪れた岩目館の跡地と踊り子のブロンズ像

多く著名人が訪れた岩目館の跡地と踊り子のブロンズ像

同じ青木地区の中でも国道を挟んだ北側は白浜のブレーメン。「民話のみち」の標識にある通り、房総の昔話とリンクするポイントが、迷路のような小路に点在しています。

まずは “弘法大師が訪れた” とされる芋井戸。井戸で芋を洗っていた老婆が大師に施しを頼まれ、芋を分けてあげたとか、あげなかったとか。話の展開は諸説ありますが、井戸の水は枯れることなく今も透き通った水が湧き、むごいも(里芋の類)の株のそばにはいつもビールか日本酒が供えられています。

伝説の芋井戸

伝説の芋井戸

芋井戸の他には木造の聖徳太子立像が祀られている太子堂があり、その先の青木観音堂には、おびんずる様という愛称の羅漢(釈迦の弟子の中で最も位の高い弟子に与えられる称号)像が法要の時などに公開されています。

続いて安房里見氏にゆかりのある青根原神社と明堂山福寿院。福寿院は安房里見氏二代目当主・里見成義(義実の長男)が開いたと言われており、青根原神社には成義の墓所があります。

下沢地区:白浜のアップタウン

高台から見下ろした下沢地区。写真中央にあるレンガ色の建物が旧町役場

高台から見下ろした下沢地区。写真中央にあるレンガ色の建物が旧町役場

青木地区の隣は下沢(しもさわ)地区。小学校、地域センター(旧町役場)、コミュニティセンターなどがある町の中心部で、安房白浜駅もここにあります。ところで電車が通っていないのに “駅“ を名乗ることに対しては首をかしげる方もいるようです。

明治末〜大正にかけて千葉県に鉄道が敷かれた頃、安房白浜にも内房線が開通する計画で、線路整備に先立ち安房白浜駅が建設されました。しかし、“ニワトリが卵を産まなくなる” など地域の反対を煽る風説がまことしやかに囁かれ、白浜に鉄道が通る話は頓挫。結果、駅だけが残って路線バスとタクシーが乗り入れ、一時ではありましたが、近隣の商店街と共に華やかな時代を経験することができました。

そしてここにも里見氏の史跡があります。下沢地区の山裾に佇む熊野神社には、里見義実の息女・種姫の碑が建てられています。ご存知の方もいるかもしれませんが、種姫は「南総里見八犬伝」に登場する伏姫のモデルとなった人物。実際は犬と所帯を持ったわけでなく、戦乱で夫を亡くした後に、尼となり白浜で余生を送過ごしたと言われています。

さて、本日は白浜の中心部を巡る旅をお送りしました。本記事では地区ごとにコースをまとめましたが、 “民話と史跡“ “灯台と国定公園” “古い繁華街とホテル跡” のようにテーマを決めて、オリジナルのマイクロツーリズムを楽しんで頂ければ幸いです。

南房総市白浜町全図

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