コロナ禍により様々な活動や連携がオンラインや遠隔で常時行われるようになりました。そんな中、自宅と職場・学校などの中間地点にあるパブリックな場がオンライン化を機に更に注目を集めています。
私は大学で現代美術を専攻しており、最近は建築的な場や空間が人に与える「くらし方」 について自身の制作を交えながら研究しています。現在は大学を休学しながらシラハマ校舎の研修生として平日は千葉県南房総市白浜で過ごし、週末は東京に戻ってアルバイトをするといった生活を送っています。今回の記事では生活拠点を変えながら過ごす中で見えてきた、これからの生活に必要な「中間地点としての場」について私が研究している内容とともに紹介したいと思います。
モノの形がつくる ”人の動き”
私が研究している 「くらし方」 とは、人が歩き息をすることや、ただ眠り、目覚め、食べること、そして他者と出会い、時間・活動・知識・モノなどの資源を共有し生きる、といった人が生きることそのものです。これらの行動をモノの形(椅子や扉、地面の傾斜や壁の肌理など)とそれらが集結した “建築” を通して観察し、記録しています。
私たちのとる言動は全て、私たちを取り囲む “モノの形” と密接に関わっています。 人にはある高さのものがあると腰掛けたくなったり、ある傾斜の丘があると寝そべりたくなったりと「なんとなく、このカタチのものがあるとこうしてしまう」という習癖があります。これは空間に関しても言えることで、“場所のカタチ” によって人はオープンになったり、臆病になったり。あるいはそこで関わる人との接し方でさえも変化するのです。逆に言えば、空間やモノの配置、デザインによってその下に集まる人々の運動のルールを作ることができてしまうともいえます。
これらのデザインは、時代の変遷と共に素材や形を変えながらも、建物の中に秩序とヒエラルキーをもたらすものとして使われてきました。そして、インターネットが生活の一部となっている今、速報性のある情報が交換され、それを必要とする社会状況の中で私たちは生きています。そのため当然、能率的に無駄なく機能できる形・デザインが社会には好まれ、順序や時間がコントロールされていない “曖昧な場” は排除されるようになりました。
しかし私はそういった曖昧さのある包括的な秩序を持たない場や時間こそ、人々が生きていく上で欠かせない要素だと思うのです。
無秩序やノイズと一緒に生活する
私は生まれてから今まで多くの時間を都心部で過ごしてきました。そこでは常に、自分が何に所属していて何者であるかを問われている気がします。だからこそなのか、誰もが出入りでき、アクセスできるごった煮の商店街や公園、広場に一種の心地よさを感じていました。そして、そこには能率的に無駄なく機能することには向いていない曖昧さや偶発的な出会いが溢れているのです。異国の地に訪れた時のことを想像してみてください。知らない人と出会い、知らない場所で過ごすこと。それは自分を自分たらしめていた情報から解放され、ワクワクすることでもあり、一方で少し怖くもあります。ですがこの感覚の中には、今「中間地点としての場」に必要な、人として生きることの醍醐味が隠されているのではないでしょうか。
人の心の動きや考えは、様々なものとの縁や出会いによって引き起こり、その時々に変化してやみません。また、そういった出会いや予測していない出来事に注意を払っていくなかで、自分の可変性をも知ることができます。包括的な秩序を持たない(順番・時間などをコントロールすることや、ヒエラルキーを作ることなどへの指向を持たない)公園のような場はそのチャンスを多く含んでいるのです。このような場は自然と様々な人やモノを集め、偶発的な出会いを引き寄せます。毎日の繰り返しのなかにそんな生き生きとした時間を持ち込める場は限られており、今はパンデミックによりますます手に入りづらいものとなってしまいました。
しかし反対に、オンライン上や遠隔の自宅や職場・学校ではない、その中間地点にある場が増え、より必要とされるように。このような状況下、出会いと発見の場はどう作られていくべきなのでしょうか。
生活の中のイベント〜シラハマ校舎のくらし〜
古くから残されている道具や建物には、変わらない良さを秘めたデザインが施されています。私が現在滞在しているここシラハマ校舎もその一つで、昔から人々が感じていたような「何だか心地のよい、あの雰囲気」がここでは保たれています。偶発的な出会いや発見を引き寄せる、公園に似たあの雰囲気です。
シラハマ校舎は旧長尾小学校の廊下や教室、窓などの構造をそのままに、新しい使い方を組み込んで再構築されています。現在は、コワーキングスペース、シェアオフィス、レストラン、ゲストルームなどが校舎内に配置されており、グラウンドには「無印良品の小屋」が数十棟建っています(現在空きなし)。そしてこの校舎内には出入り口となる場所や部屋ごとの道筋が複数あり、その複数の動線がどれも三叉路のように必ず交差するようになっています。すなわち、別々の目的で集まった人々がお互い顔を合わせられる場所が常にどこかに存在する構造となっているのです。私はこのような構造を「出会いの三叉路」と呼んでいます。
この ”出会いの三叉路” が、これからのくらしの中に出会いと発見を呼び込むヒントとなるのではないかと感じています。
私はシラハマ校舎内にある会議室一部屋と無印良品の小屋のそれぞれに滞在しました。シラハマ校舎は、食べるためのエリア、仕事・勉強をするためのエリア、眠るためのエリア、と生活の中のイベントごとに空間が分けられています。しかし私にとってここで過ごした時間は昔話で聞くような長屋生活のようなものを思わせました。個別の空間が確保されながらも、その空間もまたゆるいコミュニティの中に組み込まれていることの安心感。外部と共有されている場が自分の生活のすぐ隣にあることの緊張とちょっとした昂揚感。
世界の肌触りと言っては大げさですが、周囲の風を感じながら自分の時間を送ることができるのは、私にとっては新鮮で、とても居心地が良いものでした。ここで生活を送っている中ではプライベートとパブリックは対立概念ではないように感じます。そう感じさせる空間のふるまい方は、私に様々なものとの出会いや発見を呼び寄せ、生き生きとした時間を提供してくれました。
ここシラハマ校舎では、出会いの三叉路、すなわち全てのエリアを繋げている ”通路” という共通項が、個別の生活空間(プライベート)と出会いと発見の場を程よく近づけているのだと私は考えます。
しかし、この場所が ”住まい” として提供された場合、同じように機能するかはわかりません。シラハマ校舎は利用されている方々の多くにとって自宅や職場から隔離された心地の良い第三の居場所となっているかと思います。周辺環境に合った利用スタイルですが、私自身「帰る家が別の場所にもある」という状態が必然的にこの場との気楽な関わり方を生み、その結果、ここでの体験は「心地よい」ものとなったとも考えられます。ですが「個別の生活空間(プライベート)と出会いと発見の場を程よく近づけている」シラハマ校舎で言う ”出会いの三叉路” 的な要素は、もっと生活の場に持ち込まれても良いはずなのです。
パンデミックによって様々な活動や連携がオンライン上や遠隔地に移行したことで、身体を動かして場所を移動することが少なくなりました。ふと気がつけば、実際に行うことの手間のようなものを推し測って生活をするなんてことも。当初はそんな慣れない物事の進み方に関して不自由さや不安を感じていましたが、段々と迅速的な無駄のない生活サイクルに心地良さを感じている自分もいました。案外自分の生活圏は狭いもので、それでも機能してしまうのです…!けれども人は能率のみによって生きるわけではありません。何かの余地や誤差を常に飲み込んで進むことの方が、人間であるという条件に対しては忠実な生き方だという気がするのです。
手を動かして作ったり、マシンやソフトで作ったり。情報化されたデータを通して知ったり、足を運んで自分の目肌で触れたり。私たちはツールによってその思考に制約を受けたり大きく影響を与えられたりします。ですが、小さなホコリやノイズなどの “余計なもの” とともに機能することによって “生きた存在” は養われていたりもします。くらしの中の”生きた存在”。コロナ禍によって生活様式が変わりつつある今、この要素はどう守っていくべきなのか。私の研究活動はまだまだ続きます。
文・写真:理生