ローカルニッポン

プレカリティの中で <僕らの鴨川移住記>

福岡 達也(フクオカ タツヤ)
妻と二人で活動する際の屋号は、旅する暮らし舎。これまでの仕事を手放し、妻と1歳半の息子とともに2020年6月に横浜のシェアハウスから千葉の鴨川へ移住。パーマカルチャー、半農半Xの生活をスタートする。

山間にあるたった22世帯の小さな集落に引っ越して、半年が経とうとしています。僕らが引っ越すことになった経緯はこちらに書きました。色々なご縁や偶然が重なって道が拓けていったものの、計画的とは程遠いものでした。

けれど、この状況の中に身を置くことで少しずつ不安定性(=プレカリティ)の中でのふるまい方が、わかってきたような気がします。もしかするとこの場所での時間の流れ方は過去から未来への一本道ではく、目の前の一瞬一瞬の積み重ねでできているような、そんな錯覚さえ覚えます。目の前に広がる広大な自然と、涼しげな風に吹かれながら、今日は玄関の天井の張り直しをどうしようかと考えている最中です。

古民家の改修、モノとの出会い

だいぶ手を入れてきました。実は今の家は貸家で、大家から借りている状態ですが、良好な関係の中で好き勝手に改修させてもらっています。まだプロの大工を入れることなく、すべて僕と、それから入れ替わり立ち替わりの数人の仲間たちと、一緒に改修しています。

この古民家は今年で100歳。大正10年築で、まさに関東大震災の最中に建てられたそうです。立派な梁や、燻されて黒光りする木材、多くの人たちが手入れしてきた痕跡と向き合いながら、ゆっくり僕らにフィットするように手を入れています。畳の間から床間への張り替え、壁抜きと薪ストーブの設置、壁の珪藻土塗り、古くなった天井の撤去、等々…。

蔵にはお宝が眠っています。何年も開けていないであろう扉をこじ開けて、薄暗い中で何かを探すのは、興奮を伴います。そうして出てきた材をリメイクするのも、楽しみの一つです。先日は眠っていたちゃぶ台を丁寧に分解して(脚は虫食いにやられていた)、天板の一枚板の表面を削り取り、新しい脚をつけて、ついでに熱源と不燃ボードも取り付けて、コタツに蘇らせました。世界に一つしかない、最高にかっこいいコタツです。

自慢のコタツ。勝手に人も猫も集まってきます

自慢のコタツ。勝手に人も猫も集まってきます

繋がりある世界に繋がり直す

この地域は少し標高が高いので、前に住んでいた神奈川県の横浜より1-2度涼しいような感じがします。ですが、昔はクーラーもないので、畳を上げて下板(少し隙間が空いていて風が通る)の状態で夏場を過ごしていたそうです。この下板がまた美しい松材でした。この松材を表にした床を作ろうと試行錯誤したのですが、課題は床下の根太と言われる支えの木材が、製材されていないクネクネと曲がった材だったということでした。これでは現代住宅で一般的に使われている断熱材が入りません。

悩んでいると、最良のタイミングで最良のヒントをくれる人に出会います。「籾殻を使うといいよ」。籾殻。コメを精米する際に出てくる副産物で、空気をたくさん含むためにフカフカして暖かい。確かにこれはいいと思っていると、次に出会った人が教えてくれます。「籾殻は確かにいいけど、虫が湧くかもしれないから燻炭化するといいよ」。なるほど、燻炭化させるのがいいのか、早速やろう。そう思っていたら、次に出会った人が、「ウチの籾殻を使っていいよ」。

いろんなアイディアやモノが、物語のページをめくるように集まってきます。大量の籾殻をもらい、それを燻炭化させ、それを床下に充填した、愛の詰まった天然の床が出来上がりました。籾殻は昔から肥料としてや、畑のマルチ(雑草を防ぐ)に撒くそうです。その目的のために作られたものではない副次的なものが、次の物づくりへとつながっていくことを経験しました。物作りが次の物づくりへと繋がっていく、そうした壮大な繋がりある世界へと、繋がり直した感覚です。

リビング。床下には燻炭化した籾殻が詰まっています

リビング。床下には燻炭化した籾殻が詰まっています

また、ある1日のことです。鴨川のこの場所に引っ越してから知り合った庭師の友人から連絡が入りました。近くで古民家の掃除を手伝っているのだけど、よかったら来ないか、と。即答で、喜んで行きます、と答えます。車で10分ほどのところにある、立派な蔵に案内されました。中には古い農具、自衛で使っていたであろう弓、シンガー製の古い足踏みミシン、嫁入り道具を一式入れていたであろう大きな長箱、立派な木戸、茶碗に火鉢なんかがゴロゴロ転がっていました。「このまま全部焼却してしまうのは勿体無いからね、好きなものを持っていっていいよ」との言葉。

甘んじて色々ともらってきましたが、古い民家には古いものがよく似合います。昔のものは規格品ではないと思いきや、多少削ったり付け足したりはするものの、いろんなものがすっきり入ります。

泥まみれの中で

この地域ではかつては結(ユイ)の文化がありました。今ではあまり見られなくなりましたが、この日はすぐ下の古民家の土壁をみんなで作り直すことになりました。古い土壁を取り壊し、資源として土を取り出した後、新しく田んぼの土を含めて練り直し、切り藁を混ぜ混んで壁の材料としました。たくさんの大人たちに囲まれながら、息子も大はしゃぎです。なにせ泥の上を裸足の大人たちが楽しそうに踏んでいるのですから、これは泥遊びにしか見えません。

泥まみれになりながら遊ぶ息子

泥まみれになりながら遊ぶ息子

大人も子どもも泥まみれになりながら、楽しみながら、家を作る。この様子は何か、平和の象徴のような、安心感があります。思えば、ウィルスに悩まされる昨今では、外遊びも自粛されがちなのではないでしょうか。子どもが自由に遊びを発見して、やりたいことがすぐにやれる環境がある里山は、本当に恵まれているのかもしれません。

そして、泥は細菌の宝庫です。何が入っているかわからない不安なものとしてとるか、安心なものとしてとるかは人それぞれかもしれません。けれど、その菌が泥の中に混ぜた藁の発酵を進めてくれ、壁の強度を上げてくれるのは確かです。泥の中に裸足を踏み入れながら、両手を広げて絡まり合いを待っている何かの存在を、僕は感じるのでした。

文・写真:福岡達也

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