ローカルニッポン

益子焼の伝統をつなぐ新しい風/えのきだ窯・榎田智さん

「京都で道をみつけ、英国ではじまり、沖縄で学び、益子で育った」益子焼を世に広めた第1回重要無形文化財(人間国宝)の陶芸家・濱田庄司の言葉です。 民藝運動で知られる氏が創作活動の地として、栃木県の南東部にある益子町に移住したのは今年でちょうど100年前になる1924年。以降、益子町は自由に作陶できる表現の場として陶芸家を志す若者を数多く受け入れてきました。

よそ者を受け入れる風土

そして、近年では陶芸家に限らず、ものづくりを生業とする様々な作り手が移り住む町となっています。また、里山の風景が生み出す土地柄からか、ナチュラル志向の農家や飲食店を志す人たちも数多く移住してきました。

そんな益子町には地元民も移住者も関係なく、また社会的地位や経済力、学歴などで人の価値を判断することなく、誰でも分け隔てなく平等にという気風やよそ者を受け入れる風土が根付いています。このような町の特徴が、移住者が暮らしやすいと感じる要因のひとつといえるでしょう。
そんなこともあってか、数年前には、某大手企業の会長さんが「ここ(益子)の人たちは肩書に関係なくひとりの人間として接してくれる心地よさがある」と、終の棲家として益子町に移住されました。

〝いままで〟と〝これから〟の益子焼を感じることができる「えのきだ窯」

益子にくることになったきっかけ

そんな益子町から今回ご紹介するのは、130年余り続く伝統ある「えのきだ窯」に婿養子として入り、奥さんの若葉さんとともに益子焼の窯元を切り盛りする陶芸家の榎田智(えのきだとも)さんです。益子の窯元に入る人は、陶芸家になりたいと思い移住してくる人が大半ですが智さんの場合はちょっと状況が違います。

生まれも育ちも大阪の智さんは本人曰く“団地生まれのどこにでもある普通の家庭”で育ち、陶芸とは縁もゆかりもなかったのですが、29歳の時に沖縄を旅した際の様々な出会いが人生を変えるきっかけとなりました。
そのひとつがのちに奥様となる若葉さんとの出会いでした。「えのきだ窯」の娘として生まれ陶芸家を志していた若葉さんが、一時期沖縄のゲストハウスでお手伝いをしていた時、そこにたまたま智さんが泊まったことがきっかけで知り合いとなり、ふたりは意気投合。その後しばらくして、益子に戻った若葉さんに会うため智さんが益子を訪れたとき、民藝運動と濱田庄司の精神に深い感銘を受けて益子に住みたいと思ったそうです。

智さん:
「僕はずっと音楽をやっていたんですけど、はじめて益子にきて、若葉さんに『濱田庄司記念益子参考館』に連れて行ってもらって、民藝運動や濱田庄司の活動を目の当たりにして“民藝ってパンクや!”って思わず心の中で叫んじゃいました(笑) 僕がやっていた音楽と通じるものあると思い強い刺激をうけました」

ロクロがある細工場、夫婦並んで仕事ができることの幸せ

ものづくりを生業にしたい

そうして若葉さんとの出会いがきっかけで益子に移住する事になった智さんですが、移住当初は自分が陶芸をやることになるとは全く思っていなかったそうです。当時「えのきだ窯」は窯元でありながらお蕎麦屋さんも営んでおり(蕎麦屋は2019年に閉店)、智さんは蕎麦打ちを習いつつお店を手伝うところからスタートしました。

そんなとき、益子のカフェやパン屋さん、農家さんなど移住者が中心になって開催していたマルシェイベント「益子朝市」に智さんも出店することになり、自分の力で生業として生きているお店の人たちに憧れを抱き、とても刺激を受けたそうです。

若葉さんや家族が作る器を蕎麦屋で使ったりお店で販売したりしているうちに、また益子での暮らしの中で知り合った陶芸家さんと接するうちに、徐々に自分の手で生業にできることを目指す気持ちが強くなり、自らも焼き物を作りたいと思うようになったそうです。陶芸家になりたくて益子に来たわけではなかった智さんですが、益子の人たちとの出会いが、結果的に自然と陶芸家の道を志すことになりました。

智さんにとっての益子との最初の出会いは若葉さんであり、最初に影響を受けたのが濱田庄司なのかもしれませんが、その後の益子での様々な出会いがいまの智さんの骨格を作っていったと言ってもいいでしょう。

伝統とモダンが融合する「えのきだ窯」

伝統をつないでいくため今を大切に

智さんは益子焼の技術を伝承する「栃木県窯業支援センター」に基本を学ぶため1年間通ったのち、あらためて「えのきだ窯」にて陶芸家生活をスタートしました。
「えのきだ窯」は智さんと若葉さんの代で5代目となる益子では伝統ある窯元です。若葉さんのお父さんの勝彦さんもお婿さんである智さんを快く迎え入れ、陶芸の技術を惜しげもなく教えてくれました。そこには先代としての懐の深さとともに、もともと移住者を受け入れてきたという益子の風土も影響しているのかもしれません。

「えのきだ窯」は先代の勝彦さんも、智さんも若葉さんも、伝統的な益子焼を作り続ける窯元でありながらも、同じものを作るのではなく、それぞれが三者三様の作品作りをしている窯元でもあります。根幹を成す部分は一緒かもしれませんが、それぞれの個性を生かして、また時代の変化に合わせて作品作りをされています。

智さん:
「いわゆる伝統的な益子焼の窯元と言えますが、ライフスタイルや嗜好に合わせて絶えず変化して行くことが伝統を守ることにもつながると考えています。まあ作りたいと思ったものを作っているだけなんですけど(笑)」

若葉さん:
「いま(現代)の人が作る民藝の益子焼、モダンなものかつ使いやすさを意識して作陶しています。伝統を守るためには時代に合わせた変化も必要だと考えています」

前述の濱田庄司がもともと移住者ということもあり、益子は自由な作品作りが許される稀有な産地でもあります。「ダーウィンの進化論」ではないですが、進化(変化)を恐れて何も変えずに頑なに伝統を守ろうとしていたら、もしかしたら益子焼はとっくに廃れていたのかもしれません。

セント・アイヴス、リーチ工房の作業場にて

セント・アイヴスでの経験

そんな智さんに影響を与えた大きな出来事のひとつが、益子町が2022年に実施した「益子国際工芸交流事業・リーチ工房研修プログラム」です。益子町出身の陶芸家・岩下宗晶さんと智さんのふたりが益子の若手作家代表として、2カ月間イギリスのセント・アイヴスで作陶活動を行いました。

セント・アイヴスは濱田庄司が民藝運動の盟友バーナード・リーチとともに1920年(大正9年)に渡英し窯を築いた地であり、100年以上経った現在も友好都市として町ぐるみの交流が続いており、2021年には「益子×セント・アイヴス100年祭~友情は海を越えて~」と題した、展覧会とクラフトフェアの開催や、それぞれの地にモニュメントを建立した記念事業が実施されました。
そんななか智さんはセント・アイヴスの地で陶芸技術はもちろんですが、イギリスの風土、人々の暮らしや考え方にいたるまで大きな刺激を受けたそうです。

智さん:
「研修をうけたリーチ工房の人たちからは自信をもって作品作りをすることを学びました。またセント・アイヴスの人はみないつもニコニコしていて〝楽しく生きることの大切さ〟をあらためて深く考えさせられました。
以前、益子町とセント・アイヴスは中学生の交流事業も行っていたのですが、コロナ禍でストップしてしまいました。益子町の中学生にも自分が感じた貴重な経験をしてほしいので交流事業の再開を強く望んでいます」

「えのきだ窯」の器にお茶を淹れて来訪者をもてなす

益子の地で暮らすことのしあわせ

智さんは益子やセント・アイヴスでの出会いや経験を踏まえて、日々の暮らしや生き方、ライフスタイルがそのまま作品にも影響するとあらためて感じていると言います。
昨今はペットボトルでお茶を飲むのが当たり前の世の中になってしまいましたが、益子の窯元や作家さんを訪ねると、いまでも急須にお茶を淹れてもてなしてくださるところが多いです。時間や手間を考えると今の世の中では〝面倒くさい〟で片づけられるかもしれませんが、その手間暇こそが贅沢な時間であり、心の豊かさなのかもしれません。
益子は陶芸家をはじめ個人事業(スモールビジネス)として手仕事を生業にする人が多く、〝時間に縛られずに仕事をする人が多い土地〟でもあります。

智さん:
「震災やコロナを経験して、家族がまわりにいる場所で仕事ができることのありがたさと豊かさを感じています。時間にも縛られない、そういう暮らしってストレスがないということにあらためて気づきました」

そんな智さんにこれからどういう生き方が理想ですかと伺うと「シエスタ(昼寝)のできる生活」と笑っていました。
濱田庄司は自身の作品を「作るというよりは、生まれるものでありたい」という言葉を残しています。それはまさに日々の暮らしや考え方が自然と作品にあらわれるということを意味するものだと思います。
今回の取材を通して、益子という自由な気風が逆に伝統を守ることにつながっているのではないかと感じました。まさに智さんはこれから先の〝益子焼の新しい伝統″”を作ってくれるひとりになるのではないでしょうか。

文 :神田智規(益子町観光協会専務理事)
写真:神田智規・榎田智