福岡県糸島市。森の奥深くに佇む一軒の歯科室。
決してアクセスが良い場所ではないにもかかわらず、多くの人がこの場所を目指してやってきます。
そこには、治療と音楽、人と森が、豊かに響き合う時間が流れています。
森の奥にある、音楽が生まれる歯科室
歯医者といえば、まちの中心や駅のそばなど、便利な場所を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
福岡県糸島市に、その常識をいとも簡単に覆してしまう歯医者があります。糸島市は、福岡市から車で約40分。美しい海と山、豊かな自然に囲まれた人気のまちです。その中心地からさらに車で15分、車一台がやっと通れる森のトンネルを抜けると、木々の香りに包まれた一軒の歯科室が現れます。
ここが、院長・原田愛さんが営む「いとの森の歯科室」です。
「便利な場所ではなく、あえて“森の中”を選びたかったんです」と愛さんは語ります。
建物には小さな立て看板が一つだけで、初めて訪れる人は「本当にここ?」と不安になるほどです。しかしガラス扉を開けると、目の前に広がるのは大きなホールと、スタインウェイのグランドピアノ。自然と一体化するように置かれたそのピアノが、来訪者を静かに迎えてくれます。
森の中に佇む歯科室。今日もピアノの音がきこえてきます
森にピアノを響かせたくて
愛さん:
「幼い頃からピアノが大好きで、つらいときも嬉しいときも、いつもピアノに寄り添ってもらってきました。どうして森の中に歯科室を?と驚かれることもあるのですが、窓を開け放って、ピアノの音を風にのせたい、という思いがずっとあって。ここなら思い切りピアノが弾けるなあって。それに、患者さまには自然を感じながら、ゆったりと治療を受けていただきたかったんです。風に揺れる草木には“ゆらぎ”がありますよね。音楽にも同じゆらぎがあって、人の心を落ち着かせてくれる。だから治療室も、森が見えるように全面ガラス張りにしました」
歯科医として経験を積む中で、愛さんの胸には「ピアノを弾ける歯科医院をつくりたい」という思いが、少しずつ形になっていきました。
愛さん:
「発表会で初めてグランドピアノを弾いたとき、その音にどうしようもなく惹かれて……。中学2年生の頃には、いつか自分のグランドピアノを買おうと決めて、ずっとこつこつ頑張ってきました。満を持してローンで買ったのが、今ここにあるピアノです。やっとの思いで手に入れたこのピアノを、自分だけで使うのはもったいない。家にピアノがない子や、私のように弾きたくても弾けなかった子のために、開放したいと思ったんです」
ピアノは愛さんにとって“人生を支えてきた相棒”のような存在。そのピアノを誰にでも開放していることも、「いとの森の歯科室」の大きな特徴です。
仕事と音楽。どちらも「人の心を整える」力をもつもの。愛さんはその二つを自然の中で同じ場所に置き、響き合わせたかった――。その願いが、この森の歯科室を生み出しました。
季節の移ろいも楽しめる、治療室からの眺め
森に息づく歯科室の物語
2016年の開業当初は、森の奥という立地に「本当に患者さんが来るの?」という不安もありました。まずはご近所の方を招き、愛さんお手製の地元食材を使った料理でもてなしたり、小さなピアノ発表会を開いたりして、少しずつ「森の歯医者さん」は知られていきました。長年の歯科医としての経験に基づく確かな技術や、患者さんに寄り添う姿勢は口コミで評判となり、今では全国から患者が訪れる人気の歯科室に。
愛さん:
「糸島の方々は人と人のつながりをとても大切にしているので、だからこそ“口コミ”で、広めてくれたんだと思います」
音楽が生まれる場所
歯科室にはホールが併設されており、現在では年間30回近くのライブが行われています。最初は年に数回の小さなコンサートからのスタートでした。
愛さん:
「糸島に住んで気づいたのは、自然が豊かなのに、文化を育む場が少ないということ。このホールを使って、地域の方たちが気軽に音楽に触れられる場をつくりたかったんです」
ライブには、赤ちゃんを連れた家族や地元の子どもたちも多く訪れ、演奏の合間に小さな笑い声が響くこともしばしば。出演者と観客の距離が近く、まるで“大きな家族の集い”のような温かさがあります。
愛さん:
「音楽は、うまく弾くためだけのものではなく、誰かの心を動かしたり、元気を届けたりできる。子どもたちがピアノに触れたり、ミュージシャンと話したりする姿を見ると、本当に嬉しいです」
歯科室に隣接するホールにて。時間と共に変化する景色とiimaの音楽
子どもたちは、未来そのもの
いとの森のライブでは、時に子どもたちがステージに飛び入りし、出演者と一緒にセッションが始まることもあります。
愛さん:
「ここで出会った子どもたちがバンドを組んで、今も練習を続けているんですよ」
ライブを見た子が楽器を始め、やがて演奏者になる。いとの森のライブには、そんな小さな循環が生まれています。
愛さん:
「音楽って、個性の集まりだと思うんです。それぞれが違って、それでいい。誰かと比べるのではなく、自分の音を出せばいい。そんな空気がこの森の中に自然と生まれていけばいいなと思っています」
いとの森の空気を吸うと、子どもたちは自然と胸を張る。自分のままでいいんだ、と思える場所――それがこの歯科室の、もうひとつの役割なのかもしれません。
ここで生まれたガールズバンド「いとの森の音楽室」とiimaのセッション
10年の歩み、そしてこれから
2025年、愛さんは脳梗塞を経験しました。幸いにも後遺症はなく、いまは元気に診療を続けています。
愛さん:
「病気をして、より一層“自分にできることを丁寧に”と思うようになりました」
開業からまもなく10年。現在はライブの開催数を少し減らしながらも、来年に向けて新たな構想を温めています。
愛さん:
「ありがたいことに、患者さまの中にはミュージシャンやアーティストの方も多くいらっしゃいます。10周年には“患者さまフェス”を開催してみたいと話しているんです(笑)。カルテ番号で呼ばれるドキドキ感、ちょっと楽しそうでしょ」
半径500メートルのしあわせ
愛さん:
「世界平和は、まず自分の周りの半径500メートルから。身近な人を笑顔にすることが、きっと世界のしあわせにつながっていくと思うんです」
歯科室の仕事だけでも多忙な中、ライブの企画、音楽家のケア、ピアノ調律、そして来場者のための手料理まで――。その原動力は、純粋な“人への思い”にほかなりません。
愛さん:
「誰かのために尽くすことは、両親の姿から自然と学びました。まずは身近な人たちを大切に。自分にできる範囲で、心を込めてやりたいんです」
森の中にある一軒の歯科室。そこから生まれる小さなしあわせが、糸島のまちへ、そして世界へと広がっていきます。
音楽と人をつなぐ、糸島の小さな奇跡
この記事を書いている私も、実は「いとの森の歯科室」に通う患者のひとりであり、演奏させていただいているミュージシャンでもあります。東京から福岡に移住した私にとっても、「いとの森の歯科室」は特別な場所です。かつて一緒に演奏した仲間との再会や、新しい才能との出会い。それらをきっかけに、新しい音が生まれていく。自分にできること、自分だからできることを見つけ、半径500メートルの世界を笑顔にする――。その連鎖が未来を少しずつ変えていく。
ここには、糸島という土地の力と、音楽と人をつなげる“場のエネルギー”が確かに息づいています。糸島の森に響くピアノの音は、人と人、心と自然をそっと結びつけるハーモニー。
この森で紡がれる物語は、これからもきっと、静かに、そして確かに広がっていくことでしょう。
いとの森で出会った仲間たち。愛さんを囲んで
文:永山マキ(iima)
写真:田中真柚子(1,2枚目)・針金建築写真事務所(3枚目)・みたとも(4枚目)・藤森織枝(5,6枚目)