ローカルニッポン

館山に託された日本で唯一の伝統技術をまちづくりと協働で再発見&再発信


木綿を使った縞織物「唐桟織(とうざんおり)」。安土桃山時代にオランダ船舶によってインドから技術が伝来し、特に倹約が義務づけられた江戸期には、色調やデザインが粋な江戸文化に受容され一斉を風靡しました。現在日本でこの技術を引き継ぐのは、館山市在住で4代目唐桟織職人の齊藤裕司さんただ一人。希少な伝統文化が息づく館山市長須賀での「まちなか再生」の取り組みと齊藤さんの思いを取材してきました。

第2回唐桟織展示会

2016年2月18日から3日間、館山市長須賀にて第2回唐桟織展示会が開催されました。古い木造の建物の中に初代から4代目までの70点に及ぶ展示品が集まり、市内外から多くの来場者が訪れました。企画や展示デザインを担当するのは、千葉大学大学院工学研究科OBで館山市地域おこし協力隊員として長須賀地区のまちなか再生事業に取り組む岸田一輝さん。

齊藤裕司さん(左)と岸田一輝さん(右)

齊藤裕司さん(左)と岸田一輝さん(右)

“2013年から本格的に始まった長須賀まちなか再生協議会は、館山市や学術機関と協働して、シンポジウムやイベントの開催、また旧商家や公民館の改修、そして「まちなか塾」という教育事業を行っています。唐桟織展示会は去年に引き続き2回目ですが、今回は地域内所有者から作品を募集したところ予想以上に集まり驚きました。一世代前には日常から唐桟織を着ている方も多くいたことを伺わせますね。”

第一回唐桟織展示会の様子

第一回唐桟織展示会の様子

長須賀は、城下町と海運の結節点にあたる船着き場周辺に位置し、江戸時代から商家や宿場として栄え、今もなおその面影を残す町。岸田さんが、あえて長らく使われていなかった古い倉庫を利用してイベントを開催することには、岸田さんの掲げる「道楽」というキーワードが基になっています。

唐桟織道楽

“「道楽」というのは、積み重なる地域課題をまずは受け止めた上で、住民が遊び心や楽しさを起点に自分事としてまちづくりに参画することです。例えば今回であれば、老朽化した倉庫を会場に使ったらどうなるんだろう?ワクワクする気持ちから、仕事帰りに1人で掃除機をかけに来てしまう市職員の方も(笑)。これをきっかけにこの場所を使った新たなイベント開催の案も生まれました。伝統を守ろうという義務感よりは、何か面白そうだ、唐桟織が好きだといった主体的な参加意識から、長須賀らしい地域づくりが育まれ、唐桟織の再発見に結びつくのではと考えています。”

会場となった倉庫外観

会場となった倉庫外観

長須賀地区島原公民館で開催された千葉大生による「まちなか塾」 川の貿易で栄えた長須賀の文化を学ぶため船を作り、川に流す遊びを実践

長須賀地区島原公民館で開催された千葉大生による「まちなか塾」
川の貿易で栄えた長須賀の文化を学ぶため船を作り、川に流す遊びを実践

岸田さんはまちづくり研究者としての活動を生かして、千葉大学はじめ様々な大学建築学部の学生へ研究の場を提供するほか代表を務めるあわデザインスタジオにて遊休不動産の活用を行う建築家。地域おこし協力隊としては最後の1年となる来年度は、これまでの布石をもとに新しい展開を企画しています。岸田さんの研究に関しては、ローカルニッポン過去記事「道楽としてのまちづくり」をご覧ください。

館山に受け継がれた唐桟織

インドのサン・トメ地方を発祥として、江戸の文化と融合し日本に定着した唐桟織。館山が拠点となった経緯について4代目齊藤裕司さんに聞いてみましょう。

“明治初頭に曽祖父の茂助が、今でいうところの職業訓練校にあたる「東京授産所」にて当時唐桟織が盛んだった川越の職人から技の伝習を受けました。授産所は武士に限られた施設でしたが、茂助は勝海舟と親交があったことから特別に入ることができたと聞いています。その後身体が弱かったため、曽祖母の実家に近い温暖な館山に移り住んだことが、館山での唐桟織の始まりです。”

4代目齊藤裕司さん

4代目齊藤裕司さん

江戸時代から明治時代へ移行する頃、多くの武士が職を失い路頭に迷う混乱が起きました。この対策として建てられたのが東京蔵前にあった「東京授産所」。千葉県臼井市出身の齊藤茂助氏は、この場所で川越の唐桟織を習得し、療養地としても知られていた館山にて唐桟織職人となりました。

高機(たかばた)を用いて両手両足で糸を織り込んでいく

高機(たかばた)を用いて両手両足で
糸を織り込んでいく

一子相伝の技術とは

齊藤裕司さんに伝わる唐桟織に特筆すべき点は、時代を経て独特な作風が誕生しつつも伝統的な手作り技法に従っていること、そしてまた「一子相伝」であることです。

“初代の技術は息子齊藤豊吉に引き継がれましたが、この時「民藝運動」で著名だった柳宗悦先生から評価を得て、館山の伝統的唐桟織は広く全国へ知られることとなりました。柳先生は豊吉に「一子相伝」を薦められ、今もこの教えに従っています。しかし、通常「一子相伝」というと秘伝の技術と解釈されやすいのですが、むしろ逆で、技術は何も隠すことなくオープンなのです。柳先生は、親から子へと伝える規模で続けることで伝統技術が途絶えることのないよう、諭したのでした。”

初代齊藤茂助氏

初代齊藤茂助氏

一子相伝とは、学問や技術の奥義を親から子へのみ伝え、他へ秘密として漏らさないことと定義されていますが、齊藤家に伝わる唐桟織の技術は基本的に全て公開しています。齊藤さんによると、柳宗悦氏は、家族単位での経営が伝統技術を守るための一つの方策であると考えていたとのこと。多くの伝統技術が急速に失われていく現代、唐桟織の手作り技法が全国で唯一館山にて継承されているのは、「一子相伝」が鍵となったのかもしれません。

齊藤裕司さんは、唐桟織を利用してマフラーや巾着袋、名刺入れなど様々な小物の作品を提案(販売は休止中)

齊藤裕司さんは、唐桟織を利用してマフラーや巾着袋、名刺入れなど様々な小物の作品を提案(販売は休止中)

唯一の伝統技術継承者として

“曽祖父が学んだ川越の唐桟織は、機械織りの導入や化学染料による大量生産が人気の低下を引き起こし、近年幕を閉じることになりました。これによって手織りだけでなく、そもそも唐桟織を作る職人が私一人となってしまいました。一反ずつ手作りなので時間がかかり、多くは生産できませんが、長須賀の地域づくりとも連携して、改めてこの時代に伝統技術を絶やすことのないよう唐桟織の素晴らしさを伝え続けていきたいと思います。”

山桃の幹の皮を使った染料は、味の渋みで出来上がりの色合いを調整する

山桃の幹の皮を使った染料は、味の渋みで
出来上がりの色合いを調整する

織り上がった反物は、一枚岩の上で約半日木槌で打ち込まれ、絹のような艶に仕上がる(砧打ち)

織り上がった反物は、一枚岩の上で約半日木槌で打ち込まれ、絹のような艶に仕上がる(砧打ち)

江戸時代に流行し、全国各地域に広がった唐桟織も主産地であった埼玉県川越市での生産が終了し、現在職人は齊藤裕司さんのみ。齊藤さんにはお子さんが2人いますが、自らも強制を受けずにこの道を選択した経験上、次世代の継承もお子さんの意志に委ねられています。そんな中、齊藤さんのもとには川越の唐桟織を復元する会の方々が訪れるという新たな展開も。今後地域づくりとも協働して、幕末から明治の歴史を背景とした館山独特の伝統技術を未来へ伝えていってほしいと思います。

文:東 洋平